私の邪馬台国論

   狗奴国と倭国の統率権を争った邪馬台国を考えるには、『三国志魏書』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)が必須であることは言うまでもない。帯方郡から狗邪韓国、対馬国を経由したあと順次至るとする一支国、末盧国、伊都国、奴国そして不弥国が北部九州にあることは、大方の共通認識になっている様にみえる。しかし、私は、通説の比定地の方位に違和感を覚えていた。つまり、一支国(壱岐島)から至る末盧国を松浦郡付近(現在の唐津市)に比定し、次に到る伊都国を糸島市付近に比定するのであれば、糸島市は唐津市から「北東」にあたる。「東南」ではない。同様に奴国を福岡市付近と比定すれば、糸島市からはほぼ東にあたる。「東南」ではない。不弥国比定の宇美町は福岡市から南東にあたる。ここも「東」ではない。以上の様に、通説の比定地は『魏志倭人伝』が示す方位とは異なるのだ。また、伊都国を基点に奴国以下を放射読みする説でも、方位が地理と整合しない。では240年 (正始元年) に魏の皇帝が卑弥呼に下賜した「親魏倭王」の金印、美麗な絹織物・毛織物、化粧品、太刀、金および銅鏡百枚などをたずさえた魏の遣使団が倭国に来た時、魏使はどのように、倭国の国々を認識したのであろうか? これまでの通説では魏使は実際に各国を順次訪れ、方角と道里を計測したとしている。しかし、これには無理がある。 例えば末盧国に上陸して、隣国の伊都国が見えたであろうか?「草木茂盛行不見前人」で見えない。当然道里や方位など計測出来る訳が無い。しかも、方位も道里も基点が定まらなければ計測できないのは自明である。では、魏使はどのようにして、倭国の国々を記録したのであろうか?

   時は魏蜀呉鼎立時代である。観点は魏使目線と理解すべきである。魏の戦争相手の呉と倭国が同盟すれば、魏は不利になる。そうなれば、238年(景初二年)に公孫氏を倒した魏は帯方郡から、あるいは徐州の港から軍船団を仕立てて邪馬台国に攻め込むことになる。当然のことながら、正始元年、倭国を訪れた魏使は倭国が呉と同盟することも想定していた。魏使は、卑弥呼の朝貢団員から聴取して邪馬台国が九州島北部にあるという予備知識は持っていたとしたい。戦略に長けた魏の官吏が、予備知識を持つことなしに外国を訪れることはあり得ないからである。倭国に攻め込むとき、軍船団の駐留地が必要になる。一支国(壱岐島)が軍船の駐留拠点に適している。対馬では遠すぎる。九州北部沿岸域の国々を殲滅して上陸のための橋頭堡とする。そこから内陸に侵攻して女王の都を陥せば、傍国も含め倭国は屈服する。そのため壱岐島から展望する地理と国勢の把握が戦略的に重要であったのだ。魏使は九州北部にある国々を、北側から、つまり一支国から一望したのである。壱岐島における倭人の官と魏使との会話を現代語で再現すれば以下のようになるのではないだろうか。

  • 魏使: 「海の向こうの邑はなにか?」
  • 倭人の官: 「末盧国でございます。」
  • 魏使の記録: 「海を渡ること千余里で末盧国」「又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居」
  • 魏使: 「その隣の邑はなにか?」
  • 倭人の官: 「伊都国でございます。」
  • 魏使の記録: 「伊都国は(一支国から)南東にあり、末盧国からの道里はやや遠いので陸行で五百里」「東南陸行五百里到伊都國・・・有千餘戸・・郡使往來常所駐」
  • 魏使: 「その隣の邑はなにか?」
  • 倭人の官: 「奴国でございます。」
  • 魏使の記録: 「奴国は(一支国から)南東にあり、伊都国からの道里は近いので百里」「東南至奴國百里・・有二萬餘戸」
  • 魏使: 「対馬島から一支国にくるまでに、奴国の遥か遠くに邑がみえたが、その邑はなにか?」
  • 倭人の官: 「不弥国でございます。」
  • 魏使の記録: 「奴国の東に行くと不弥国あり、道里は近いので百里」「東行至不彌國百里・・有千餘家」
  • 魏使: 「それでは、投馬国と女王の都はどこに見えるのか?」
  • 倭人の官: 「投馬国は知りません。女王様の都はここからは見えません。」
  •    このように、魏使は方位と二国間の目視(概算)の距離を壱岐島から見て記録したといえる。つまり一支国を三角形の頂点として二辺を方位にして、底辺を二つの国の距離(道里)としたのである。このように理解すれば、末盧国、伊都国、奴国は、現在、我々がみる九州地図にある比定地と正合する(図1)。

    一支国から 見た玄界灘沿岸諸国
    図1. 一支国から 見た玄界灘沿岸諸国
    一支国から末盧国へ「又渡一海千餘里」としたのは、一支国が島国である事を示した。末盧国から伊都国へは「陸行五百里」としたのは両国が陸地にあり、距離が離れていることを示している。伊都国と奴国は陸上の近隣にあり「百里」と概略で記したのである。私は宗像市までを奴国領域とみるので不弥国は遠賀川流域としたい「東行至不彌國百里」(奴国から東に行くと不弥国、奴国からの道里は百里)である。それ故、私は、内陸の宇美町は不弥国比定地とはしない。

       二国間の方向と距離は、魏の遣使団が末盧国に上陸して、伊都国、奴国および不弥国を順次踏破して得た実測値ではないのだ。そのため、途中の山や川の記述は当然無い(『魏志倭人伝』の道里を現在の地図にあてはめて論議することは全く無意味である)。そして、国勢は、展望して得た村落・集落の規模から、概算したのだ「其戸數道里可得略載」。勿論、戦争時、動員される軍衆の員数を予測するためである。末盧国の情景「濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」も、魏の遣使団は船上から見たのである。いつ襲われるかも判らない危険をおかしてまで、誰が、初めての地にやすやすと上陸するものか。魏の遣使団は、「郡使往來常所駐」の伊都国に到着して、津に上陸したのだ。

       倭国の国々の紹介は一支国から南向きに展望した戦略図なのだ。ではなぜ北側からか? 華夏には方向を北から南を見る習慣があった。古来「天子は南面す」という思想があり、周時代には指南車が発明され(図2)、

    指南車
    図2. 指南車
    その後、前三世紀には中華レンゲの形をした司南針(指南針)という方位磁石も発明された(図3)。
    司南針(指南針)
    図3. 司南針(指南針)
    三世紀頃後漢で「指南魚」が発明された(図4)。
    指南魚
    図4. 指南魚
    「指南魚」は一種の羅針盤である。磁石(磁鉄鉱片)を魚形の木片に組み込み、水に浮かせて南を知るもので、魚の頭が南を、尾鰭が北を指し示す。それが指南魚である。これらの道具は「指南」の語源である。また、王莽新の時代に文様がほぼ完成した方格規矩四神鏡がある。その銘文に「左青龍 右白虎 朱爵 玄武」とある。青龍は東を示し、白虎は西を表す。我々の方位感覚では北に向かって右は東、左は西になる。真逆である。華夏人は南に向かって方位を識別するから「左青龍 右白虎」が正しい東西の配置となる。ちなみに朱爵=朱雀は南、玄武は北を表わす。銘文は「東西南北」を表わしているのである。「東西南北」の語源である。

       華夏人の魏使は当然の事として北から倭国を見たのである。その基点が壱岐島であったのだ。魏使は当時には発明されていた指南魚を携帯してきていたのかもしれない。そして、倭国侵攻の際の重要拠点となるであろう壱岐島はしっかり視察して記録していた「方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地・・」。

       では、邪馬台国はどこか?「自女王國以北其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳」(女王国より北は戸数と道里を略載できる。その他の旁國は遠絶にして詳らかに出来ない)との記述から、国勢を明記した「末盧国、伊都国、奴国、不弥国などの国々の南に邪馬台国が在る」のは自明であるのだ。また、邪馬台国は壱岐島から見えないので計測のための基点を壱岐島に置くことができない。当然のことながら邪馬台国への道里は記録できないことになる。同様に、その他の旁國も壱岐島から見えないので、戸數・道里も明記できないのである。したがって、邪馬台国への旅程の表記は当然異なると理解すべきなのだ。魏使(又は陳寿)は「南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月」と概略で著したのである。 この一文の解釈は、邪馬台国の位置を比定する重要事項であるため、これまで種々の解釈がおこなわれてきた。
       ここでは、私の考えを示そう。私は、『三国志』を読破する能力がないので他に誤記の証例を示せないが、「陸行一月」の「月」が「日」の誤記ではないかと考える。「自女王國以北特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」とあることから、「邪馬台国は伊都国の南」にあり、「伊都国は、魏の洛陽や帯方郡および三韓などとの外交の拠点」であると理解できる。伊都国には女王国から派遣された一大率が常駐する。さらに帯方郡から派遣された使者は、いつも伊都国に滞在する(「郡使往來常所駐」)。また、交易を監視する大倭もいる(「國國有市交易有無使大倭監之」)。従って、「帯方郡から南に船で十日」で伊都国の津に到着し、そこから「陸行一日」で邪馬台国に至ると判断しても、『魏志倭人伝』の記述と地理的に整合する。伊都国にいる官吏と女王卑弥呼との交信(「皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王」)に徒歩一月(往復で二月)かかるようでは、機能不全は明らかであり、ありえない。魏の遣使団が邪馬台国を訪れていることから、伊都国からの里程の計測は無理としても、「徒歩一日で邪馬台国に到ることが出来た」のが、実際であるとしたい。まさに、「(郡から) 南至邪馬台國水行十日陸行一日」である。そして、この距離が「萬二千餘里」で、「その道里を計るに(邪馬台國は)会稽東治(浙江省紹興市あたりか)の東に在る」と魏あるいは晋の皇帝に示したのである。

       他方、内陸の諸国も壱岐島から見る事が出来ず、勿論陸上では全貌を把握することが出来ず、その方向、国勢などは不明とした(「其餘旁國遠絶不可得詳」)。

       それでは、投馬国はどこと見るかが問題となる。「南至投馬國水行二十日」では、投馬国は相当に遠方であり、魏使は壱岐島から投馬国は見る事ができなかった。魏使は、帯方郡あるいは伊都国に常駐する郡官吏から聴取して情報得たとしたい。陳寿は、邪馬台国につぐ国勢の記録がある投馬国も「使譯所通三十國」の一国と判断したのだ。それで、邪馬台国の前に投馬国を「(帯方郡から)南至投馬國水行二十日」と紹介したのである。道里の記述が無い邪馬台国と同じ表記、つまりイメージである。私は、投馬国を出雲国としたい。帯方郡から伊都国経由で出雲に至れば、旅程は水行二十日ほどとなる(伊都国までの水行十日の二倍)。あるいは、対馬経由でも、旅程は水行二十日で合理的である。以上述べたように、壱岐島から見えない投馬国と邪馬台国への行程表現は、沿岸部の国々とは異なると理解すべきなのである(図5)。

    邪馬台国と投馬国および海流
    図5. 邪馬台国と投馬国および海流

       私の結論として、「卑弥呼の邪馬台国は伊都国の南、徒歩一日の距離に位置した」である。当時、伊都国の南の背振山地に邪馬台国へ至る幹道があったのであろうか? 伊都国の境界の比定地が現在の福岡県のどの辺になるのかが不明確なため、この表現でおさえておきたい。

       これまで高名な先学が、魏里は短里であるとか(邪馬台国在九州説)、南を東に読み替えるとか(邪馬台国在奈良説)、邪馬台国までの国々の道里を縦列に足していくとか(邪馬台国在奈良説)、伊都国から放射状に読むとか(邪馬台国在九州説)、いろいろ主張してきた。しかし、そのような操作を『魏志倭人伝』は全く必要としないのだ。『魏志倭人伝』は、正しく倭国の末盧国、伊都国、奴国、不弥国そして邪馬台国の位置を記述しているのである。

    *指南車は長い間作られたようで、帰化人の倭漢沙門知由は斉明天皇四年(658年)に指南車を作り、天智天皇に献上している(666年)(斉明・天智天皇紀)。古代日本人も、南に向かって方向を見ていた事が窺える。地図と『倭人伝』の記述との間の方位のズレに関して、魏使が倭国を訪問したのが夏期であり、日の出位置が真東より北に移行していたために、魏使が方位を間違えたと言う説もあるが、全くのお笑いである。華夏の古代王朝は中原を版図にした。遠国との戦争の時、何千、何万もの軍衆を戦地に派遣するには当然の事ながら方位が重要になる。季節に因って東と南の方位がズレるようであれば、軍衆を正しく戦地に派遣できないではないか。それ故に、華夏では方位を知るための道具の発明に執着したのだ(周時代の指南車、前三世紀の司南針)。蜀と呉との戦闘状態にある魏の官吏が方位を誤ることはありえない。『魏志倭人伝』が著す地理は、邪馬台国観光案内ではないのだ。

    **「陸行一月」の解釈で、白鳥庫吉は、不弥国から邪馬台国に至る里数を「千三百余里」と考察したため、「一月」は「一日」の誤記としている。

    ***女王国から南四千餘里に有る侏儒國の人(身長三、四尺)は、シラス地層からなる薩摩・大隅半島に暮らす低身長症(亜鉛欠乏が病因)の人々としたい。そこから東南船行一年可で至る裸國・黒齒國(タンニンを含む未熟バナナやタロイモ常食による歯の黒染)は、オーストロネシア人の島嶼であろうが、情報源はわからない。「有侏儒國有其南・・去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」は、女王国から侏儒國、更に裸國・黒齒國へと至る、順次読みの文章である(『後漢書』の記述が合理的)。国から国への「順次読み」には「去・・有其南・・、復在其東南」の文言が使われている。同じく、「又南渡一海・・、又渡一海」と「又」が使われる。末盧国以後、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国などの紹介にこれらの文言は無い。従って「順次読み」してはダメなのである。先学は『倭人伝』を熟読してこなかったのか?