壬申の乱の後始末
(1)近江朝廷の敗因

   では、この壬申の乱における出来事を、論考してみよう。
   近江朝廷の大友皇子は、天智天皇が伊賀采女の宅子娘に生ませた皇子であり、大田皇女や鵜野讃良皇女とは異母弟になる。大友の幼名は伊賀皇子、後に大友皇子と名乗る。大友の字は大友村主出身の乳母にちなんでいる。鵜野讃良皇女が讃良郡鵜野村出身の乳母に養育されたように、王家の子女は有力豪族との信頼関係を維持するため、こうした養育法を行ったとされる(Web)。大友村主は、大友漢人(近江国滋賀郡大友郷、現在の滋賀県大津市穴太に居住した東漢人系帰化人)の首長であった。東漢人は、応神朝に帯方郡から日本に帰化した阿智使主(あちのおみ)とその郎党が始まりであることは、既に述べた。祖の大友村主高聡は、百済より来朝した僧の観勒から「天文・遁甲の術」を学んだとされる(推古十年)。大友村主は、近江朝廷で、大友皇子の主要な支持勢力を成したのであろう。乱の後(天武六年)、天武天皇は東漢直に「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。小墾田の御世(推古朝)より近江の朝に至までに、常に汝等謀ることを以て事とする・・・云々。今後若し犯すもの有らば、必ず赦さざる・・」と叱責している。大友村主による大友皇子の養育も、「養育の仕方が悪かった」として、一つの罪にあたるのであろうか? また、天智天皇の大津宮遷都も、大友氏の天文・遁甲の示唆に因るのであろうか?これも七つの大罪の一つになるのか?古くは、東漢直駒が、蘇我馬子にだまされ、崇峻天皇暗殺を実行している(崇峻五年)。天皇暗殺は大罪である。その上、崇峻天皇の嬪、河上娘を盗んでいた。これも大罪である。河上娘は馬子の娘であったため、駒は馬子に討たれた。天武天皇は古事をしっかり学んでいたのだ。天武天皇の詔は、「東漢氏は、以後、中央政治に関与するな」との警告であったとしたい。東漢氏は、製鉄、土木建築技術や織物技術だけでなく軍事力にも優れていた。平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂は東漢氏の出である。

   では、近江朝廷軍の敗因はなにか? 大海人一同が吉野を脱して東国に向かうという知らせを得た時、大友皇子は「騎馬軍を組織して追撃する」との進言に賛同しなかったことがあげられる。騎馬軍団を組織し、大津京のある琵琶湖の南岸から水口・甲賀を経て拓植へ抜ける鹿深道(かふかのみち)を利用して先回りし、大海人一行の進路を遮り、戦って大海人を斬り殺すなり捕縛するなり出来た。距離的にも、また道の険阻さからいっても、吉野から拓植へ至るより、近江大津から拓植に至る方が速いのだ。現在で言えば大津から東海道線で草津に行き、草津線で柘植に至るようなものである。それに対して、大海人のルートは、吉野から国道166号で宇陀に行き、165号で名張を通って伊賀に至り、25号(西名阪国道)で柘植を通って関に至ることになる。その後、関から1号で朝明、桑名に至り、国道258号で大垣に到着できる。このように、距離だけで見ても大津から柘植に到る方が有利である。大友皇子は決断すべきであったが、残念ながら天下を取る器量ではなかったのだ。『懐風藻』(天平勝宝三年751年)によれば「皇子の風采は立派であり、頭の回転が速く、故事に通じ、文章の才に優れ、議論するものは皇子の博学に感嘆した」という。これは、不幸な死を賜った者への讃辞であろう。不幸な死を賜った人物ほど、美麗に物語られる。これが日本人の心情である。