壬申の乱の後始末(4)鉗鉤のかん違い

   ここで、尾張国司小子部連鉗鉤について論考してみよう。鉗鉤(さひち)は、大海人が乱に勝利して戦犯の処罰や論功行賞を行う直前、山に隠れて自殺していた。鉗鉤は、大海人が不破に到着する途中に、二万の農民兵を率いて参集してきた。大海人は大いに喜んで不破郡家で鉗鉤の労をねぎらい、その兵たちを各部署に配属させている。大海人軍にとっては第一の功労者であるといえる。大海人も自殺の原因が分からなかったようだ。『紀』は、「鉗鉤は功ある者であった。何も罪なくして死ぬことはない。それとも何かの謀を隠していたのだろうか」と大海人の言葉を記している。実は、鉗鉤は、大海人の味方ではなかったのだ。鉗鉤は、大海人の乱に助勢するために部民を率いて不破郡に至ったのではないのだ。大海人の乱決行のまえに、近江朝は、美濃・尾張国司に「天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ」と命じていた。しかも武器を携行させて。この命は大海人の乱を予見してのことであり、東国に通じる不破をおさえ、東国から軍兵を動員するためであった。鉗鉤は近江朝の命に従って部民二万を集め、遅れて、不破に至ったのだ。だがしかし、そこには大海人が既に美濃の兵を参集させていた。大海人は鉗鉤の二万の兵を援軍とみて喜んだ。鉗鉤は事態が十分に理解出来ぬままに、自軍を大海人に参軍させてしまった。結果として鉗鉤は、天智天皇の御子の大友皇子が率いる近江朝廷軍を滅ぼすことに加担してしまったのだ。鉗鉤は乱の後に、己の勘違いに気づいたのだ。誤った判断で、近江朝廷を滅ぼしたことを大いに後悔し、そして大海人の論功行賞の前に自殺の道を選んだのである。話は、雄略天皇の御世(六年)に遡るが、天皇は蜾蠃に「全国の蚕(こ)を集めよ」と命じるが、蜾蠃は勘違いして児(赤児)を集めて献上してしまった。天皇はその間違いを許し、蜾蠃を少子部連に任じて今で言う保育園を作り養わせた。少子部の由来である。天智天皇の時代には少子部連は尾張の地で尾張国司小子部連に出世していたのだ。(ただし、『記』は、少子部連は、大分君と同じく神武天皇の第三子、神八井耳命を祖としており、蜾蠃はその裔であったことになる)。いずれにしても、蜾蠃しかり、また鉗鉤しかり、「うっかり勘違い」をおかしたのだ。血筋であろうか? たとえ誤判断であったとはいえ、鉗鉤の功績により、天武十二年には、伊賀や美濃とともに尾張国の役あるいは調が免除になり、八色の姓で宿禰の姓を賜ることになる。少子部連の職掌は、全国から聡明な少年・少女を募り(拉致ではない)、猿女君として朝廷や有力氏族などに献上していたと、私は考える。猿女君は世襲でないとしたい。