飛鳥浄御原宮での天武天皇
(4)『日本書紀』編纂

   次に『日本書紀』について考えてみよう。『日本書紀』編纂に関係する記述として、天武十年、「天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。」があげられる。この詔が、『古事記』編纂を指示したものか、『日本書紀』編纂を指示したものか、種々説がある。私は、前述した様に、『古事記』は、天武天皇のルーツを温ねる私的な書と考えている。その内容も、継体天皇記までは詳しいが、以後の天皇記は極めて簡略であり、推古天皇記で終わっている。なぜか? 継体天皇記は、物部荒甲と大伴金村が石井氏(磐井)を討つところで終わっている。天武天皇にとって、それで良いのである。自身の祖の倭彦王を丹波の桑田郡に見いだしてくれたのは大伴金村であったからである。倭彦王以後の祖の話は、大伴氏が伝えていたであろう。大伴氏から十分情報をとれたのだ。その時代は、邪馬台国王統の時代であった。狗奴国王統の者は雌伏しているしかなかったのだ。大海人の時、世に出る時代が巡ってきたのである。おそらく、『古事記』の草稿は天武朝には出来上がっていたであろう。和銅元年(708年)、元明天皇により平城京への遷都の詔が出され、和銅三年(710年)三月十日に、内裏と大極殿しか完成していなかったが遷都がなされた。和銅四年、安萬侶は、元明天皇から阿禮の誦習する『帝紀』・『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう正式に命じられる。そして、平城京が名実ともに日本の首都となるべく発展的に造営されるなか、和銅五年(712年)に、遷都の祝いとして、整本された『古事記』三巻が、安萬侶から元明天皇に献上されたとしたい。ただし、ここで問題が起こった。元明天皇の出自である。元明天皇は、即位前は阿閇皇女(あへのひめみこ、草壁皇子の妃)であり、天智天皇と蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘の妹)の間に生まれた皇女である。推古朝以降の事蹟を書き進めれば、蘇我氏の悪行のみならず、天智天皇が祖父石川麻呂の遺体に下した辱めを暴く事にもなる。阿禮の誦習する『帝紀』・『旧辞』は用明・天智朝まであったかもしれないが、元明天皇のことを慮って、「言意並朴 敷文構句 於字即難」として記述を避けたとしたい。
   そうなると、天武十年の天皇の「令記定帝紀及上古諸事」の詔は、当然『日本書紀』編纂のこととなる。天皇の詔である以上、事実上の国史編纂になる。こうした国家事業になると、日本人は徹底して労を惜しまない。編纂のため、『古事記』のみならず、多くの氏族の私的史書・忘備録・墓碑、各地の地名説話(原風土記、風土記編纂の詔勅は元明天皇)、神社仏閣の由緒、華夏の史書、百済三書および高句麗の史書を網羅したのである。私的史書や原風土記は、猿女君が伝えてきた「誦」を筆録したものと思われる。天武天皇の皇子の舎人親王が総裁となって編纂され、養老四年(720年)に完成し、元正天皇に提出された。神代から持統天皇の御世までを扱っている、事実上の正史である(神代紀も歴史を物語ると、私は考えている)。『紀』の名称、編纂、構成、原資料、書体などについては多くの諸説があるので、素人の私はこれ以上踏み込まない。

   しかしながら、藤原史(不比等)は『紀』に関して外す事は出来ないと、私は考える。大伴氏の庇護のもと育った大海人が、大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)を介して、中臣鎌子(藤原鎌足)とその子の藤原史(不比等 659〜720年)に繋がっていることは、前述した。また、鎌子(藤原鎌足)は車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)を娶って藤原史をもうけた(『尊卑分脈』Web)ともされる。車持君は崇神天皇の第一皇子豊城入彦(崇神四十八年条)の後裔とされ、天皇の乗輿を製作、管理することを職掌とし、その職務を果すための費用を貢納する車持部を掌握していた。履中天皇五年条で、車持部が宗像神社ともめ事を起こしたことは既に述べた。車持君の職掌を通じて、与志古は鎌子との接点を持ったのであろうか? 女系で、藤原史は狗奴国人の崇神(=神武)天皇に繋がるのである。大海人は、与志古と鎌子から車持君の出自を聞いたのであろう。壬申の乱(672年)の時、藤原史は近江朝廷側にいたと思われるが、幼年であり、乱の混乱に巻き込まれる事はなかったであろう。持統三年(689年)、三十一歳の時、判事に任ぜられて正史に登場する。この時すでに直広肆 (従五位下) の高位にあった。中臣鎌子により朝堂入り出来たことを恩義に思う天武天皇は、藤原史を庇護し、厚遇したとしたい。その後の不比等の活躍は史書に譲るとして、六十二歳で薨じた養老四年(720年)は、『紀』が完成した年でもある。中臣氏の祖は、磐余彦(神武天皇)の東征に従った天種子であり、神武天皇即位時には天神の寿詞(よごと)を奏上している(『先代旧事本紀』)。不比等は、狗奴国後裔なのだ。天武天皇の皇子である舎人親王が総裁する『紀』の編纂に当然首を突っ込んだと考えるのは不合理ではない。それは、中臣氏のみならず天武天皇にも都合良く『紀』の内容の一部を改竄する事である。

   その重要事項の第一は、天降る瓊瓊杵を「天孫に仕立てて、葦原中国を統べる」とすることと、「天壌無窮の神勅」を挿入することであった。これは、多くの先学の説の通り、「天武天皇の皇后持統天皇が孫の軽皇子を皇位に即け、天下を統べらせようとした」ことの反映であり、「天武皇統の継承を正当化」させる事でもあった。しかしながら、実際には瓊瓊杵は日向の吾田へ天降っていた。葦原中国(本州島)ではない。この事実は改竄のやりようがなかったのである。
   第二は、大海人の出生に関する履歴を消しさり、天智天皇の実弟に仕立てることであった。第三は、天智天皇暗殺の隠蔽であった(これは、平安時代末、僧皇円により暴露されてしまう『扶桑略記』)。また、先に記した『古事記』の記述を推古朝で終わらせることも、安萬侶に指示したかも知れない。

   以上述べた様に、『記紀』は一部改竄を含む。しかしながら、高名な文系の史学者が主張する様な「歴史の捏造」があったとは、私は思わない。日本人は日本の歴史を正当に伝えているといいたい。