出雲の銅鐸
(1)建御名方と荒神谷出土中細銅剣

   出雲の地の国譲りを大國主と交渉したのが、『記』では建御雷と天鳥船に乗る軍勢、『紀』と『先代旧事本紀』では経津主と武甕槌(建御雷)、また、『出雲國風土記』では布都怒志(経津主)一人となっている。いずれにしても軍事交渉の結果、出雲国と葦原中国を大國主父子(八重事代主と建御名方)から奪う事に成功する。また、『出雲國造神賀詞』では、記紀と異なり、「天穂日と天夷鳥の父子が経津主とともに地上を平定した」となっている(Web)。出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は天穂日の裔孫とされている。天穂日は、天照大神が素戔嗚との誓約(うけい)で成した五人の男子のうちの次男である。出雲を平定した者はいずれも、天照大神と高木神と同じ高天原の住人である。『記紀』神話と史実をもとに、大國主の国譲り譚を考えてみよう。

   私は、出雲国は『魏志倭人伝』が記す「投馬国」と比定している。当時、投馬国は邪馬台国につぐ国勢(五万戸)を持っており、本州島の先住民に広く影響を及ぼしていたとしたい。その統括者が大國主であった。「台与の邪馬台国」は本州島(葦原中国)に東遷するにあたり、大國主に統率権の委譲を強要した。最初の交渉は天穂日で、非武装で臨み、交渉に失敗した。次に天若日子を天麻迦古弓と天波波矢で武装させて派遣するが、大國主の娘の下照姫と結婚するものの還矢で射殺され、結果として国譲り交渉に失敗する。この過程で、大國主の御子の建御名方は、「台与の邪馬台国」が次には武力をもって攻めてくる事を悟った。それに応戦するため、武器を大量に調達することにしたのである。「投馬国」(=出雲国)は独自のルートで半島の狗邪韓国や弁辰および楽浪・帯方郡を通して大陸の公孫氏とも交流があり、大陸の青銅製品の中古品を輸入できたとしたい。公孫氏および魏の時代は、既に鉄製武器が主流であり、青銅の剣や戈は時代遅れとなっていた。では、なにをもって出雲が狗邪韓国および帯方郡を通して大陸の公孫氏とも交流していたと言えるのか? それは、『紀』が示す。高天原追放後の素戔嗚が新羅に降臨しているのである。そして素戔嗚は「此の地は吾居らまく欲せじ」と不満を言って泥船を作って東に向かい、出雲の簸(ひ)の川(斐伊川)に到っている。このように素戔嗚が新羅に降臨し、その後新羅を離れて簸の川至ったという伝承が生まれたのは、卑弥呼の時代にすでに、出雲と半島の新羅(辰韓)とのあいだに、渡海航路があったためと考えてよい。さらには「韓郷の嶋には金銀有り。若使吾が児の所御す國に、浮宝(船)有らずは、未だ佳からじ」と素戔嗚が言ったのは、半島の帯方郡との交易は船が必要であるからである。『魏書』馬韓伝には、三韓では金銀が珍重されるとは記されていない。「以瓔珠爲財寶 或以綴衣為飾 或以縣頸垂耳 不以金銀錦繍為珍(珠飾りを財寶とする。それを衣に縫って飾ったり、あるいは頸に懸けたり、耳に垂らしたりし、金銀や錦、毛織物を珍宝とはしない)」。金銀を好む漢人が、三韓を訪れて金銀を見逃すはずがない。三韓には金銀がなかったのである。帯方郡の南の馬韓でも「其北方近郡諸国差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚」(その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい)ほどの非文明の地であった。したがって、金銀がある所と言えば、楽浪郡旧地および公孫氏が植民地経営していた帯方郡以外にはありえないことになる。帯方郡は城壁で囲まれていた。「韓郷の嶋」とは韓郷(からくに)の中の城壁で囲まれた地域と解釈でき、それは帯方郡をさすことになる。それ故、私は、出雲国と帯方郡、さらには大陸の公孫氏との間に渡海航路があったと考えたのである。一部に銅、鉛、錫のなどの青銅器の原料を半島から輸入したという説も見るが、半島南部には有力な錫鉱山は無いようであり、三韓も錫は大陸から輸入する必要があったはずである。他方、また、出雲国には銅や方鉛鉱を産出した鉱山跡がいくつもあり、当時でも銅や鉛を採掘していたことは否定できない。また、現在の宮崎県、大分県および兵庫県には有力な錫鉱山があった。錫の融点は低く、既に、錫を精錬していたかもしれない。

   いずれにしても、「台与の邪馬台国」が出雲の地に侵攻する構えを見せたときから、建御名方は戦いの準備をすすめた。それが、銅剣つくりである。鍛鉄の鉄刀の方が武器としては優れているが、青銅剣を鋳造する方が武器の大量生産には有利である。なおかつ、青銅剣の形態を揃えることは、鋳型作りがはかどるとともに湯(溶銅)量を決め易い。建御名方は、数百本の青銅剣を新たに鋳造した。そして、武甕槌や布都怒志(経津主)にひきいられた邪馬台国連合の軍隊と、出雲の人々は青銅剣を持って戦ったのだ。しかし、鉄刀で戦う邪馬台国連合の軍隊に敗北した。

   この戦争に関して、興味ある史実がある(井上貴央『青谷の骨の物語』鳥取市社会教育事業団 2009年 Web)。内容を再度転載する。
   「鳥取県の日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から形成された村で、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる大虐殺があった。東側の溝から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している。死者の中に15~18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝が埋め立てられていた。」
   この地域は出雲の隣の伯耆国に含まれる。時代は弥生後期後葉でまさに「出雲平定=大國主の国譲り」の時代にあたるといえる。建御名方は長野県の諏訪湖のほとりまで逃れた。出雲のみならず伯耆、因幡の村々も戦争に巻き込まれ、このような凄惨な殺戮が行われたと私は思う。『先代旧事本紀』は記す「経津主神は、岐神を先導役として、方々をめぐって平定した。命令に従わない者がいれば、斬り殺した」。また、『魏志倭人伝』が「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」と記す様に、邪馬台国の武人は、武闘精神が遺伝子に組み込まれている如く残虐であったのだ。伯耆国での虐殺がその一例である。出雲平定は、邪馬台国と出雲国の凄惨な大戦争の結果であったのだ。

   大國主の国譲り後、出雲国平定にあたった邪馬台国の権力者(経津主、建御雷、天穂日や天夷鳥)は出雲の部族の武装解除を行った。そして、大量の青銅製武器を提出させた。その多くの銅剣を村落から遠く離れた荒神谷の急斜面に埋納させ、使用できないようにした(荒神谷から出土した中細銅剣群である。銅剣は長さ約50cm、重さ約500gである。400本鋳造したとすると使用する青銅屑量あるいは銅量は約200kgである)。荒神谷出土の銅剣には刃毀れの目立つ個体が多いのは実戦で使用された証拠である(図2)。

 神庭荒神谷遺跡出土の中細銅剣と中広形銅矛
図2. 神庭荒神谷遺跡出土の中細銅剣と中広形銅矛
私は、後漢鏡を中心に青銅鏡を収集している。全てが伝世品ではなく、出土品の方が多い。土の中に千数百年以上埋まっていた鏡でもその縁が、錆と土圧だけでは、荒神谷出土の銅剣の刃先の様に破壊されていることは無い。青銅器は粘性が弱いため、むしろ鏡体がパキンと割れていることのほうが多い。あるいは、銅剣は祭事用に鋳造された物であり、出土銅剣の刃先の荒れは鋳バリの未処理のためとする説もある。それならば、柄の部分にもバリが残るはずである。銅剣の柄にバリは無い。手で握るためにバリは処理されていたと言える。出土銅剣に刃毀れがめだつことから、銅剣は実戦で使ったといえるのだ。出雲では、多数の銅剣が地中に埋られたが、それでも残った銅剣、銅戈や銅矛については破壊して銅屑とし、筑紫から鋳造師を呼んで、青銅器を作らせた。それが、武器への転用が不可能な銅鐸であった。