銅鐸祭祀の盛行と
氷上中央分水界の水上交通

   では、なぜ、「卑弥呼の銅鐸」が黄金色を呈したのであろうか? 青銅製品を溶かして湯にする時、銅は1000℃以上の温度を必要とする。錫の融点は230℃であるから、銅の融点まで温度を上げる間に錫は蒸発して、含有量が下がる。それにより、リサイクル製品は黄金色になる。あるいは、湯まわりを良くするために鉛を加えると、錫の相対含有量が減じ、黄金色の製品が出来上がる。新たな銅、鉛、錫を原料として青銅器をつくれば、白銀色か淡黄色になる。錫の含有量が多いと硬くはなるがもろくなる、また、経年で錆びると漆黒色になる。地中から出土した銅鐸が強く青錆ているのは、錫の含量が少ないからである。

   「卑弥呼の銅鐸」奉祭は、饒速日の東遷とともに河内、大和、摂津、播磨、丹波、近江、三河、遠江および四国島などに移住した邪馬台国連合の豪族や物部の氏族の間にも伝播した。もちろん、邪馬台国連合後裔の郷地である筑紫にも、卑弥呼の銅鐸祭祀はもたらされた。当時、故人を祀る神社があったであろうか? つまり、邪馬台国人の手にかかり殺された女王を祀る神社を建てるというような概念が人々の間にあったであろうか。それは、無かったとすることの方が合理的といえる。神社として形有る建造物が建てられ始めるのが崇神王権時代であると、記紀の内容から読み取れる。したがって、卑弥呼を祀る神社は存在しない。卑弥呼の表象になったのが「卑弥呼の銅鐸」であったと、私は思う。「卑弥呼の銅鐸」祭祀が全国的に広まる事により、本州島や四国島に東遷した邪馬台国連合の豪族や権力者の「輪」ができあがった。「卑弥呼の銅鐸」を祀っていれば、その豪族は仲間と理解することができた。しかし、時が経るとともに卑弥呼の表象としての銅鐸の祭祀から、豊作祭礼としての銅鐸祭祀に重点が移り、銅鐸は装飾性が求められ、美麗になり、大型化していった。どうも邪馬台国の技術者は大型の物を造る事が好きなようで、後漢鏡の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」をモデルに直系46cmの「内行花文鏡」を鋳造したように、高さ1mを越える銅鐸を造るようになった。銅鐸は、出雲についで河内、摂津、播磨、大和、紀伊の工房で鋳造され各地に搬出されていたが、鋳造師集団が各地に出かけてその地で鋳造するようにもなった。あるいは、地方にいた鋳造師が技術を競い合い、その地で独自の文様を持つ銅鐸も造られるようになった。

   銅鐸祭祀の盛行とともに、材料となる中古青銅製武器の輸入も続いた。西晋が大陸を統一した280年以降は、河内に地盤を築いた宇摩志麻治と物部の氏族は、台与が維持した西晋王朝との冊封体制を活用して、交易するようになった。貿易には西晋の商人、安曇氏および宗像氏の海人があたった。輸入経路は九州から瀬戸内海をわたるルートの他に、日本海を対馬海流にのる日本海ルートもあったと判断される。というのは京都府宮津市に元伊勢籠神社がある。元伊勢籠神社は、天照大神が笠縫邑(奈良県桜井市)を出て伊勢神宮に鎮座するまでの一時期巡幸した神社であり、天照大神遷座後は天孫彦火明命を主祭神としている。火明命つまり饒速日を祀っているのである(後世、籠神社の神官は、天香語山の裔孫の海部氏が務める)。このあたりに邪馬台国後裔の強固な地盤があったことがわかる。そして、栗田湾から船で由良川を遡り、兵庫県丹波市氷上町(旧氷上郡)の中央分水界の土師川と竹田川を通り加古川を下れば銅鐸の工房があった姫路の平野部(播磨や摂津)に到ることができる。この分水界は標高95mで日本一低い。往時は小舟が通れるほど水量も豊富であっただろう。その由良川や中央分水界のある氷上には多数の古墳が分布し、よく開発されていた事がわかる。旧氷上郡からは外縁紐式袈裟襷文銅鐸と扁平紐式袈裟襷文銅鐸が出土しており、この地でも銅鐸祭祀あったのだ。つまり、この水上交通路は日本海から瀬戸内海に抜け、河内に至ることができる重要な交通路であり、ここを支配していた権力者が邪馬台国後裔であったのだ。さらに丹後半島に至る航海路の途中にある豊岡市気比の丸山川沿いに絹巻神社と海神社があり、これらの神社も天火明命を御祭神にしている。付近には銅鐸がもたらされている。丸山川河口は日本海航路の中継地であったのであろう。加古川ー氷上ー由良川水上交通路を使って、姫路の工房で鋳造された銅鐸が、氷上、気比さらには出雲までもたらされたと考えられる。邪馬台国連合の人々が行った日本海航路を使う西晋との交易の中継基地であったゆえに、宮津と気比にも天火明命=饒速日を祀る神社が建てられたのだ。福知山盆地には土師とか綾部(漢部)という地名が残る。日本海航路が盛んであったため、西晋からの技術者集団が渡来してきていたとしても不合理ではない。

   そして華北の中古青銅製武器の輸入は、西晋が滅ぶ316年頃まで続いた。また、中古青銅製武器は祭器の広形銅剣、広形銅矛そして広形銅戈の材料としても使われた。新井宏氏の論文「鉛の同位体比から見た三角縁神獣鏡」に示されたデータは、後漢鏡、出雲荒神谷の中細銅剣、突線鈕式銅鐸、扁平鈕式銅鐸、平型銅剣、平型銅矛そして中平型銅戈の鉛同位体比の中心値は一致した値を示す。倭国の青銅製武器や祭器が、後漢時代の青銅製武器をリサイクルして作られた証左である。また、鋳出しを良くするためと黄金色にするために、鉛の含有量を増したとすれば。添加した鉛は半島産であったか、国産(対馬の対州鉱山)であった可能性が高いようである(新井宏「鉛の同位体比から見た三角縁神獣鏡」 Web)。