十代崇神天皇
(1)神々の祟り

   「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)天皇(崇神天皇)は、十九歳で立って皇太子となられた。善悪を判断する力に勝れ、若くから大きい計りごとを好まれた。壮年に至り心広く慎み深く、天神地祇をあがめられた。つねに天皇としての大業を治めようと思われる心をお持ちであった」(『紀』)。この崇神天皇の紹介は、磐余彦=神武の紹介とほぼ一致する。そして四年の詔「惟我皇祖 諸天皇等 光臨宸極者 豈為一身乎。蓋所以司牧人神 経綸天下。故能世闡玄功 時流至徳。今朕奉承大運 愛育黎元。何当聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚。其群卿百僚 竭爾忠貞 共安天下 不亦可。」も神武天皇の「八紘一宇」に通じるものがある。しかし二代から九代天皇までにはこうした事蹟は無い。順次明らかにしていくが、私は、神武天皇は、崇神天皇を神格化したと判断しているので、神武天皇で紹介された事蹟と崇神天皇の事蹟とが重なっても不合理ではないと考えている。したがって、神武東征から橿原宮での即位の話は、全て崇神天皇の事蹟であるとした。それ故、私は神武の事蹟を述べる時、「神武=崇神天皇」と著してきたのである。

   崇神三年、都を磯城の水垣宮とした。ここからが大和王政へと発展する崇神王権の本格始動といえよう。そして、早速に、王権を揺るがす事態が起こるのである。
   崇神五年、国中に疫病が流行し、半数の住民が死に到った。
   崇神六年、百姓に流離したりあるいは背叛いたりするものが多数あらわれ、徳でもって国を治める事が困難になった。崇神天皇は朝から晩まで国難を恐れ,なぜそうなったのか,理由を天神地祇に聞いた。

   この時、崇神天皇は、天皇の大殿内に天照大神と倭大国魂神を並祭していた。『記』と『先代旧事本紀』には無いが『紀』は記す。「天照大神と倭大国魂神の二神を天皇の大殿の内に並祭りしていたが、その神の勢を畏れて、共に住むことが不安になった。そこで、天照大神を、豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命をおつけになって倭の笠縫邑に祭るようになった。また、日本大国魂神を渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命に託し、大市の長岡岬に祭らせたが、姫はすでに髪が落ち、身体が痩せ細って祭ることが出来なかった」。倭大国魂神が祟を成し始めたのである。人民の半数にのぼる疫病死と民百姓の離反を、崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神の祟りと覚えた。祟りを畏れた崇神天皇は天照大神と倭大国魂神を宮殿の外に移した。天照大神と倭大国魂神は以前から大殿に祭られていたとあることから、倭大国魂神も天照大神ともに神武(=崇神)天皇に宇摩志麻治から献上された物であったのだろう。もし天照大神(鏡)が、天孫降臨譚のごとく、天照大神から「床を同じくして奉祭せよ」といわれて授かった物ならば、それらを継承した崇神天皇は容易く宮殿の外に移したりしできなかったであろう。

   崇神七年、崇神天皇は「災いを致す所の由を極めざらむ」として浅茅原に八十万の神を集めて卜を行った。そして天皇の夢枕と倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)に憑依して、三輪山の大物主神が「我が児の大田田根子命をもって大物主大神を祭る主とせよ」との旨を告げる。後日、再度、倭迹迹日百襲姫、物部の大水口宿禰(伊香色雄の子)と伊勢麻績君の三人が夢で「大田田根子命をもって大物主大神を祭る主とせよ。また、市磯長尾市をもって倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平になる」と、同じ神託を受ける。ここで、国難の本当の原因が明らかになったのだ。それを聞いた天皇は喜んで、大田田根子(意富多々泥古)を河内国の美努村に探し出し、群卿を集えた浅茅原に大田田根子を召し出して出自を確認した。はたせるかな、大田田根子は、三輪山の大物主と活玉依姫の子であったのだ(『紀』)。天皇は、大田田根子を三輪山の大物主大神を祭る祭主とした。また、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主とした(後の大和神社:大和坐大国魂神社である)。また、崇神天皇はあわせて国中に八十万群神を祭り、天社、国社を建て、神地と神戸を定めた。その結果、疫病は終息し、百姓の離反は鎮まり、五穀豊穣となり、民百姓は喜んだ。

   『紀』の記述では、なぜ三輪山の大物主大神や倭大国魂神が天皇に国難と覚えさせるほどの祟りをしたのか明確にならない。ところが、『記』の意富多々泥古=大田田根子の出自を見ると、祟りの原因がよくわかる。意富多々泥古は、大物主大神と活玉依姫の子孫ではあるが、直接の親は、建甕槌(たけみかづち)なのだ。建甕槌も饒速日とともに河内国に東遷してきていたのだ。その建甕槌が活玉依姫の裔孫の飯肩巣見(いひかたすみ)の女(むすめ)と結婚してなした子が意富多々泥古であると理解できる。意富多々泥古は、出雲で大國主の御子の建御名方と戦争をして出雲平定を行った建甕槌=建御雷の子であったのだ。『記紀』と『先代旧事本紀』とでは少し内容が異なるが、出雲平定の際、建御雷か布都怒志(建御雷と布都怒志は同一とする説もある)が布都主剣を使って、大國主を誅殺していた。その大國主の百八十人の子の一人が大物主であり、大國主の和魂奇魂として大和国を統べていたのだ。つまり、大和国では三輪山(の山頂の磐座)が大物主神の依代なのだ。大物主神の神託は、「大國主を誅した建甕槌の子である大田田根子(意富多々泥古)をもって、三輪山に大物主神(=大國主の御魂)を斎祭させよ」であったのだ。

   他方、倭大国魂神は渟名城入媛にかわって、長尾市が祭主になって祭った。長尾市は、倭国造である珍彦(うづひこ、椎根津彦)の子孫である。珍彦は磐余彦が東征に出た時、速吸門から大和まで先導した国神(くにつかみ)であり、その功績が認められ倭直になっていた。ではなぜ、倭大国魂神は激しく渟名城入媛や崇神天皇に祟ったのか?垂仁二十五年条に、倭大国魂神が祟りをなした理由が再度述べられている。倭大国魂神は穂積氏の大水口宿禰に憑依して「天照大神は天原を治む。天孫は葦原中国の八十魂神を治む。我は『地主の神』(大地官)を治む。天孫がこの事をよく理解して、自分を祭れば天下太平になる」といわせている(『紀』)。「地主の神」とは、大國主が統率していた葦原中国の国々の神であり、大國主の子供達の百八十神であるのだ。その神々を治める主は当然大國主である。「市磯長尾市をもって倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平になる」との倭大国魂神の託宣は、「葦原中国各地の『地主の神』をもって大國主神を祭らせよ」ということなのだ。理解不足の崇神天皇は、「地主の神」を統括していた倭大国魂神を、天孫系の渟名城入姫に祭らせた。祭主が間違っていたのだ、だから、姫は祟られた(落髪、痩身)。その地の国神が奉祭すべきであったのだ。大和国では、倭直の子孫の長尾市が倭大国魂神を祭ることが、正しい奉祭であったのだ。では、倭大国魂神はなにかということになるが、葦原中国の国々の神を統率した主大神ということになる。大國主大神のの魂代は、大國主が誅殺される時身につけていた八坂瓊である。八坂瓊は、大和神社(大和坐大国魂神社)の御祭神になっている(大和神社が八坂瓊と公表している)。

   このように見ると、崇神五年と六年に起こった国難は、結局、主大神の意向であったのだ。決して、天照大神の祟りではなかったのだ。現代風に言えば、葦原中国の大和国に縄張りを設けた新参の崇神(=神武)天皇に、元の大地主の大國主が仁義をきらせたのだ。大國主が国譲りをしたのは、邪馬台国の天照大神であって、狗奴国出身の神武(=崇神)天皇ではなかったからである。

   しかし、いかに大神といえども、人間界に「祟り」を成すことができたであろうか?