十代崇神天皇
(14)三角縁神獣鏡の埋納主

    三角縁神獣鏡の副葬と墳墓の被葬者に関して、私見を述べたい。

    旧河内国の大阪府茨木市紫金山古墳は、伝世と見られる「新有善同」方格規矩四神鏡が棺内に、棺外に倭鏡の勾玉文帯鏡と十面の初期型の三角縁神獣鏡を埋納していた。さらに石室の石槨内外に73口の刀剣、石槨内に165点の鉄鏃、堅矧板革綴短甲と籠手の武具、鉄製の鎌・斧頭・槍鉋・鑿、車輪石や鍬形石、貝製の鍬形石、筒形銅器、管玉、糸魚川産の棗玉や勾玉があった。仿製内行花文鏡が検出されていないことから、王権に臣従した豪族でない事は確かである。それでは、これほどの大量の武器や豊富な鉄製品および装身具をもつ豪族は誰かという事になる。この墳墓は4世紀前半に築造されたとしている。私は、河内の豪族の長髄彦と三炊屋媛の兄妹とみる。長髄彦は、饒速日の義兄で宇摩志麻治の叔父にあたり、三炊屋媛は宇摩志麻治の母である。長髄彦は饒速日を君主とあおいでおり、忠臣でもあった。神武と激しく戦った後、鳥見村で宇摩志麻治に誅された。長髄彦には無念の誅殺であったであろう。崇神天皇は長髄彦の祟りを畏れ、三炊屋媛が没した際に、河内における帰葬を許したのだ。ただし、多量の武器や鉄製品の埋納は、武装解除の意味もあったのだ。

    島根県雲南市加茂町の神原神社古墳について、論考してみよう。この古墳は出雲式方墳であり、「陳是作鏡三角縁景初三年銘同向式神獣鏡」を素環頭大刀、木装大刀、鉄製武器や農工具および玉類とともに埋納していた。この三角縁神獣鏡は、銘文から洛陽から亡命した陳氏が作った事がわかる。そして、なによりも木装大刀が興味を引く。崇神天皇が出雲大神の神宝を所望した時、その神宝を出雲振根の弟の飯入根がやすやすと崇神天皇に献上してしまった。それを怒った振根が、川での水浴みにさそい、謀って飯入根に木刀を持たせ、飯入根を切り殺してしまった。その顛末を出雲の人々は歌った「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き 差身無しに あわれ」(『紀』)。この古墳に埋納されていた木装大刀こそ、まさにその木刀なのだ。被葬者は飯入根(出雲梟帥、いづもたける)なのだ。飯入根が殺された後、出雲から遠く離れた丹波の氷上の氷香戸辺(ひかとべ)が小児の歌を活目皇太子(後の垂仁天皇)に奏上している。その歌を要約すると「川底に出雲の人が祭る本物の見事な鏡が玉藻の間に沈んでいます。勢いの良い立派な神様は底に沈む宝の主。その御魂は山河の水に浸かり、静かに漂っています。立派な神様は川底の宝の宝主」。それを聴いた活目皇太子は祭れと勅した。説話には必ず真実が隠されていることを、私は幾度も証明してきた。小児が歌う川は斐伊川(支流の赤川)であり、その川の中に飯入根の遺体が打ち捨てられたままになっていたのだ。それを知った宇摩志麻治と物部が、邪馬台国の後裔の氷香戸辺を遣って、活目皇太子に「出雲梟帥の遺体を鏡とともに祭る」許可をだすように進言したのだ。この小児の歌を皇太子に奏上した氷香戸辺に関して『紀』の解説は不明としている。氷香戸辺がいた氷上(兵庫県丹波市氷上町付近)には中央分水界がある。中央分水界が繋ぐ由良川と加古川の水路交通権を握っていた権力者が邪馬台国後裔の氷香戸辺一族であったのだ(この地には親王塚古墳など多くの古墳群があり、地方豪族がいたことが窺える)。当然、氷香戸辺は宇摩志麻治と物部とも親交があり、明器の三角縁神獣鏡も知っていた。活目皇太子の勅に従って、出雲の人は出雲梟帥を、墳墓(出雲式方墳)を造って埋葬し、その上に社を建てて祭った。小児の歌こそ、飯入根の葬送に「陳是作鏡三角縁景初三年銘同向式神獣鏡」が献納されたことを暗示するものであったのだ。景初三年は卑弥呼が魏の皇帝に遣使した年号である。天照大神(=卑弥呼)の子孫である出雲梟帥が持つにふさわしい紀年鏡である。おそらく316年頃、洛陽を脱出した陳氏が徐州産の銅などの鏡の原材料を携え、日本海航路で若狭湾に着き、由良川を遡って氷上に到った。陳氏はまた、精緻な同向式画文帯神獣鏡や画像鏡を複数携えてきていた。倭人に華夏の鏡がいかに優秀であるかを見せびらかすためである。氷上で、氷香戸辺の依頼を受け、陳氏は同向式画文帯神獣鏡を元笵にして「陳是作鏡三角縁景初三年銘同向式神獣鏡」を作ったのであろう。三角縁と外区の鋸歯文帯および二重波線は三角縁神獣鏡の様式になっているが、内区は画文帯神獣鏡の同向式の原型を留めていたのはそのためである。また、銘文は「景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地命出 吏人名之位至三公 母人名之保子宜孫 寿如金石」(このうち京と名は異体字、鏡での判読不明文字は王仲殊氏による補填)である。陳氏は銘文に「洛陽の鏡師で杜地(倭国のど田舎)に命出(=亡命)してきました」と自経述(自己紹介)文を混ぜているが、それを除けば、普通の漢鏡の銘文である(「官吏がこの鏡を所有すれば三公に出世できる。母親がこの鏡を所有すれば子孫が繁栄する。長寿まちいがいなし」)。氷香戸辺が飯入根の葬儀にこの鏡を献納したのだ。兄に謀られて無念の死をとげた出雲梟帥(=飯入根)を鎮魂するために。その墳墓の上に建てられたのが神原神社である。出雲の人は見事な鏡を神原神社=神原古墳に祭ったのである。この古墳はその上に神社を持つという他に例を見ない様式なのはこのためである。

    また、中央分水界が繋ぐ由良川が流れる福知山盆地には1000基をこえる古墳があり、そのなかの福知山市広峰15号墳から、同じく陳是作鏡の「景初四年銘三角縁盤龍鏡」が検出されている。その銘文は「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人名之位至三公母人名之母子宣孫寿如金石兮」(陳は鏡字、名は異体字)であり、陳是作鏡「三角縁景初三年銘同向式神獣鏡」の銘文と類似する。氷香戸辺は、魏暦の景初四年は存在しないことを知らず、陳氏に景初四年紀年鏡を作らせて、邪馬台国後裔(広峰15号墳の被葬者)に献納したのであろう。あるいは316年頃に亡命してきた陳氏も魏暦に景初四年(240年)が存在しない事を知らなかったのかもしれない。いずれにしても、「盤龍鏡」は華北で流行した鏡であり、陳氏には馴染みのある鏡である。この鏡を魏鏡としないのであれば、景初四年はあった、いや無かったと学会をあげて騒ぐ事はなにもない。それにもう一つ私見を述べたい。鏡師の陳氏であるが、王仲殊氏は呉の鏡師と主張する。しかし、陳氏は「自有経述 本是京師(自身は洛陽出身である)」と三角縁神獣鏡に刻しているではないか。また、新氏も、「銅出徐州 師出洛陽」と鏡に刻し、「洛陽出身の鏡師」と述べている。仮に、王仲殊氏の主張が正しいとすれば、それは、「華夏人が倭国に来て鏡に嘘の経歴を刻した」、つまり「古来中国人は嘘つき」と主張することになる。王仲殊氏はそれを承知しているのであろうか? この時代、倭国に命出した鏡師がなぜ嘘の経歴を鏡に刻まなければならないのか? 陳氏も、新氏もそして王氏も全て華北の洛陽出身の鏡師とするのが正しい。

    補足になるが、「青龍三年顔氏作鏡方格規矩四神鏡」について論考する。この鏡の同型鏡がもう一面見つかった(骨董商が持っていたのだ)が、出土地は不詳である。出土地の分かっている二面については、古代の丹後(京都府京丹後市)と摂津(大阪府高槻市)の墳墓に埋納されていた。二つの地域はこれまでに述べた由良川ー加古川水上航路でつながる。異体字を知る顔氏も316年頃に日本海航路を使って徐州から銅などを持って倭国に亡命した洛陽の鏡師であり、方格規矩四神鏡にはなじみがあった。丹後の豪族の依頼もあり、「青龍三年顔氏作鏡方格規矩四神鏡」を三面作った。その丹後の豪族の祖先は「青龍三年」に何らかの関わりを魏との間にもったのであろう。福知山盆地の由良川の近くには綾部(漢部)や土師という地名がある。渡来の技術者集団の移住地のようにもみえる。顔氏は、この鏡以外に鏡師として名前が出てこない。大和に至って鏡師にならず、漢部の邑にとけこんでしまったのであろうか。ただし一面の鏡は摂津に伝わった。

正始元年三角縁同向式神獣鏡
図6. 正始元年三角縁同向式神獣鏡

    「正始元年陳是作鏡」について論考を進めよう(図6)。 「三角縁正始元年銘同向式神獣鏡」が、兵庫県豊岡市森尾古墳、山口県周南市竹島古墳(四世紀前半)および群馬県高崎市の蟹沢古墳(四世紀頃)から検出されている。この鏡の文様はより精緻になっており、陳氏が、大和に至って磯城の鏡作の地で作ったのであろう。宇摩志麻治から、魏暦の景初四年は正始元年と教わった。銘文は景初三年陳是作鏡から「吏人名之位至三公母人名之」を省いただけでほぼ同じである。森尾古墳は、「三角縁正始元年銘同向式神獣鏡」の他に方格規矩鏡を入れているだけで大和王権の表徴である仿製内行花文鏡を持っていないので、被葬者は大和王権に臣従はしていない。墳墓は、天火明(=饒速日)を祀る絹巻神社と海神社がある丸山川の支流の付近にあり、饒速日とともに東遷してきた権力者の一人を埋葬しているともみえる。この丹波・但馬国造が饒速日の御子の天香語山直系の海部氏であることが、これを裏付ける。被葬者の祖先は卑弥呼の魏への遣使のひとりであったのかもしれない。それで、「三角縁正始元年銘同向式神獣鏡」が献納されたとも考えられる。一方、古墳の近くに出石神社があり、天日槍(天之日矛)を祭神とし、天日槍が招来した八物神宝を神宝としている。第六章第三節で詳述するが、私は、天之日矛は遅れて東遷した邪馬台国人(天照大神=卑弥呼の長男の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳の後裔)と判断している。したがって、森尾古墳が天之日矛の墳墓であると考えたい。

    竹島古墳(四世紀前半)では、おそらく呉鏡の「劉氏作神人車馬画像鏡」を棺内に入れ、「三角縁正始元年銘同向式神獣鏡」と「天王日月四神四獣三角縁神獣鏡」を副葬していたと考えられる。大和王権の表徴である仿製内行花文鏡を持っていないので、西晋と交流ができたアンチ大和王権の権力者がこの古墳の主であろう。初期の三角縁神獣鏡のモデルとなった画像鏡を宇摩志麻治と内物部のために西晋から輸入した豪族でもあるのだろうか。
    次の蟹沢古墳の場合は、大和王権の表徴である仿製内行花文鏡を二面もっており大和王権に臣従する権力者が被葬者であるといえる。崇神天皇の皇子豊城入彦と関係する人物が埋葬されている可能性が考えられる。なぜならば豊城入彦は上毛野の君の祖となっているからである(『紀』)。
    最近になり、奈良県桜井市茶臼山古墳からも「三角縁正始元年銘同向式神獣鏡」の破片が検出された。この古墳では、多くの種類の鏡のみならず多くの副葬品も破片になっており、まるでゴミ捨て場のようである。従って、この鏡と被葬者の関係は私には分からない。

    三角縁神獣鏡を、古墳の主と大和王権との結びつきを示す物証にする意見がほとんどであるが、三角縁神獣鏡は副葬の明器であり、誰でも献納できた物とみるべきである(図7)。

 三角縁獣文帯四神四獣鏡
図7. 三角縁獣文帯四神四獣鏡
古墳の主と大和王権との結びつきは大和王権の表徴である仿製内行花文鏡をもって論考すべきである。

    最後に、京都府木津川市椿井大塚山古墳について、論考してみよう。椿井大塚山古墳からは、卑弥呼の鏡である大型の「長宜子孫銘雲雷文連弧文鏡」(和名は長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡=息津鏡)、方格規矩鏡、対置式画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡33面以上のほか素環頭大刀1口を含む鉄刀7口以上、鉄剣・鉄槍約10振り、鉄鏃200個以上、銅鏃16個以上、小札革綴冑1点、鉄鎌3点、斧10点、刀子17点、釶7点以上、鑿16点、銛10点以上、ヤス3点、釣針1点そして短甲と考えられる鉄板などが検出されている。小林行雄は、多数出土した三角縁神獣鏡に着目して研究した。そして著書『古鏡』のなかで、椿井大塚山古墳出土三角縁神獣鏡の画像の形式と日本国中の出土三角縁神獣鏡の画像の形式との相関図(「三角縁神獣鏡の同笵関係」図8)を表わし、椿井大塚山古墳の被葬者が三角縁神獣鏡配布の中心人物であると判断した。

小林行雄作製三角縁神獣鏡の同笵関係図
図8. 小林行雄作製三角縁神獣鏡の
同笵関係図
後に、その人物を武埴安彦と推察している。しかし、私は、被葬者はずばり、宇摩志麻治と考える。卑弥呼の鏡であり、息津鏡でもある大型の「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」の埋納が第一の理由である。また、第二の理由は、「対置式画文帯神獣鏡」の東王公と西王母の像である。二神が纏う先が蕨のように巻く羽衣は、多くの種類の三角縁神獣鏡の神人に採用されている。まさに「画文帯神獣鏡」の東王公と西王母の羽衣が三角縁神獣鏡の神人の羽衣のモデルなっているのだ。この鏡は漆黒色をしており、元は錫の含量が多い銀白色の優品であったことは間違いない。私は、再三述べたように鎮魂用の三角縁神獣鏡作製は宇摩志麻治と物部のアイデアであると考えている。三角縁神獣鏡のモデルの鏡を宇摩志麻治が保持していたとしても当然である。また、三角縁神獣鏡を明器として墳墓に埋納するというアイデアを創造したのが宇摩志麻治と物部氏であるから、ほぼ全ての形式の三角縁神獣鏡を副葬していても不思議ではない。また、副葬に武器と木工用具そして漁労具が多い事もまさに天物部の軍団を率いて各地を転戦した宇摩志麻治にふさわしい。父の饒速日は義兄の長髄彦とともに鳥見村(登美)に至り、おそらくそこで宇摩志麻治は生まれ、育ったであろう。近くの木津川の扇状地にある山背には、天照大神の三男の天津日子根が東遷してきている(『記』)。天津日子根は大叔父にあたる。また、山代国造の祖の伊岐志爾保が饒速日とともに天磐船で東遷している(『先代旧事本紀』)。つまり、山背には宇摩志麻治と関係深い人たちが移住して来ているのだ。宇摩志麻治は神武(=崇神)天皇の勅命で天物部を率いて美濃、越後を平定し、岩見国に入りそこで没した。物部神社背後の八百山の墳墓に葬られたとなっている。宇摩志麻治は天皇の足尼という重鎮である。中央で埋葬されるのが当然である。岩見国で没した宇摩志麻治は、親族と物部氏により、生まれ故郷に近い山背国に帰葬されたのだ。椿井大塚山古墳は三輪山からほぼ真北にある。邪馬台国後裔の宇摩志麻治は、狗奴国後裔の支配地である纒向には葬られたくなかったのだ。

    崇神六十八年、崇神天皇は崩御し、山辺道上陵に埋葬された。その陪冢とされる天神山古墳には大量の朱と多数の鏡が埋納されていた。これらの鏡には、豪族から召し上げた物もあったであろうが、三角縁神獣鏡、仿製内行花文鏡あるいは倭鏡のモデルとなった鏡も含まれていたと考えられる。黒塚古墳8号鏡「三角縁神人竜虎画像鏡」は、天神山古墳の「西王母東王公竜虎画像鏡」(727ー11)をモデルしたことはデザイン的に明らかである。このことからも、崇神天皇の時代から三角縁神獣鏡の副葬が行われたとする事は合理的である。しかし、この古墳から三角縁神獣鏡は検出されていない。三角縁神獣鏡は崇神天皇の時代から行われたはずである。なぜ無いのか? それは、三角縁神獣鏡は死者に対する鎮魂のための明器であり、死者が埋葬されていない陪冢には不要だからである。

    三角縁神獣鏡の文様と銘文の論考は、拙文の『三角縁神獣鏡が映す大和王権』を一読いただきたい。