十代崇神天皇
(13)三角縁神獣鏡の製作者

   三角縁神獣鏡は、崇神天皇により神を祀る風潮が起こった崇神九年以降に、墳墓に埋納する副葬品(鎮魂のための明器)として作られ始めたと、私は考える。そのため見栄えがよく、日光に光り輝く金色の大型鏡であった。内物部は鏡師集団をサポートし、西晋王朝を介して、華北の丹陽産ではなく、輸入に都合の良い徐州産の銅を輸入して三角縁神獣鏡の生産にあたらせた。

   三角縁神獣鏡の作成に一大転機が訪れた。316年、西晋王朝が、匈奴や鮮卑など北方騎馬民族の侵略をうけて滅亡し、華北は五胡十六国の異民族国家乱立の時代を迎えた。洛陽にいた漢人鏡師は匈奴や鮮卑などの需要を受けて、鏡作成にあたったが、異民族の支配に嫌気を感じた漢人鏡師の幾人かが、鏡製作の需要がある倭国に命出(亡命)してきたのだ。漢人鏡師は鏡作りを巧みとしており、漢語の素養もあり、倭人鏡師を指導して、より精緻な文様をもち、漢字の銘文をもつ三角縁神獣鏡が作られるようになった。墳墓への三角縁神獣鏡の副葬が盛行するようになると、内物部は鏡師集団を大いにサポートし、東晋王朝を介して徐州産の銅を輸入して三角縁神獣鏡の生産にあたらせた。西晋王朝の後裔司馬睿が、317年には江南に新たに東晋王朝をうち立てていたからである。

   では、三角縁神獣鏡が作られ始めたのはいつ頃になるかということになる。三角縁神獣鏡のデザインとして採用した画文帯神獣鏡や画像鏡が西晋から輸入できるようになるのは、早くても西晋が華北と華南を統一した280年以降となることは確かである。というのは、台与は、魏に引き続いて魏の禅譲を受けた西晋にも遣使しており、西晋の冊封体制を維持しようとしていた。そのため、呉と同盟を組む事はなかったはずであり、従って280年に呉が滅ぶまでに呉で流行していた画文帯神獣鏡や画像鏡を独自に輸入する事はなかったと言えよう。だが、具体的にいつから呉鏡の輸入が始まったかは不明である。

   しかし、一つ手がかりがある、それは、三角縁神獣鏡の銘文に現れる「異体字」である。具体的には「旁が大あるいは犬の龍」である。この「異体字」は京都府大田南5号墳と大阪府安満宮山古墳出土の同型鏡「青龍三年顔氏作鏡方格規矩四神鏡」の銘文に現れている。これを観察した古田武彦氏は「犬が旁の龍」の書体をとりあげ、中国清代の学者羅振玉の 『増訂碑別字』を参考にして、四世紀の北魏を含む五胡十六国時代に興った「異体字」であると論証している(『さよなら!「邪馬台国」』Web)。ところが「青龍三年顔氏作鏡方格規矩四神鏡」が発掘された当初、「青龍三年」はまさに魏の年号(西暦235年)であることから考古学者はこぞって魏鏡と認定してしまった(福永伸哉氏、奥野正男氏など)。しかし鏡の規矩のLが「逆L」ではなく「正L」に鋳だされ、主文の四神も逆配置に鋳だされており、モデルの方格規矩四神鏡を見たままに鋳型に刻したのは確実である。その理由から、「青龍三年顔氏作鏡方格規矩四神鏡」は、倭国産の仿製鏡と見るべきとする見解が出された(王仲殊氏)。総合的に考えると、本鏡は魏鏡ではなく、四世紀の華北の「異体字」を知る顔氏が倭国に来て作製したものと私は判断する。それと同様の「旁が大の龍」の異体字が、三角縁神獣鏡の銘文に見られるのだ。それが、大阪市天王寺区の茶臼山古墳出土の四神四獣鏡で、銘文には、「新作明鏡・・・銅出徐州師出洛陽周文刻鏤皆作文章・・・」に続けて「左龍右虎・・」という句があり、その「龍」がまさに「旁が大の龍」なのである(拙書『三角縁神獣鏡が映す大和王権』参照)。この銘文を作った新氏は銘文が示すように、洛陽出身の鏡師であり、徐州産の銅を使って鏡を作ったと理解できる。また、陳氏作鏡および王氏作鏡の三角縁神獣鏡の銘文にも、京、名、楽、州、刑などに異体字がある。これらの異体字は、現代のコンピュータの漢字辞書にもなく、それ故に本などの印刷になった銘文では当用漢字が当てはめられており、検出できない。しかし三角縁神獣鏡の写真をしっかり観察すれば容易に検出できる。そして、新氏、陳氏も王氏も「師出洛陽」の鏡師である。一方、松本清張は『古代史疑』のなかで、「師出洛陽銅出徐州」は鏡のブランド価値を高めるための嘘の宣伝文句としている。私はこれを間違いと見る。確かに三角縁神獣鏡は交易できる明器であるが、陳氏らが鏡に「嘘」を刻して販促しようとする卑しい心情を持っていたとは考えられない(現代の中共人ならいざ知らず)。

   鏡の銘文と異体字を考え合わせると、「洛陽にいた鏡師は、西晋に侵略を続ける鮮卑や匈奴などの異民族の需要にも応じて鏡を作り続け、異民族のもつ異体字を習得した。異民族が316年西晋を滅ぼした事に嫌気し、江南に移住するのではなく、倭国に亡命した」というストリーが出来上がる。亡命の時は、早ければ316年頃になるであろう。それは、顔氏も同じといえよう。(ただし、「新作明鏡」を埋納した茶臼山古墳の築造は5世紀頃とされている。しかしながら、1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺き石や埴輪が全く見つからなかったことから、実年代の特定は難しいようである)。

   話を三角縁神獣鏡に戻そう。皇族あるいは権力者の墓として造り山墳墓が築造されるようになったのは崇神天皇の時代である。最初の墳墓が、崇神十年の箸墓であったと私は考える。「その箸墓は大坂山の石を運びて造る。即ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝にて運ぶ」(『紀』)。では、墳墓造りは人民に強制したものであったのだろうか? 私はそうは思わない。崇神五年、六年と多くの人的損失を経験した崇神天皇が、墳墓造りのために、人民に一年中農業を放棄させて、強制動員するとは思えない。だからといって人民のボランティアでは墳墓造りは出来ないであろう。私は、人民を農閑期に動員し、何年もかけて墳墓造りをしたと考える。土地は王家、神社(神地、神戸)、権力者や豪族が所有しており、大半の農民は小作であったはずである。農閑期は職もなく、従って食にも困る。公共事業を行って、人民を養ったのだ。つまり、人民に職と食を与えるため大規模な墳墓をいくつも造ったといえる。

   その墳墓への死者の埋葬について考えよう。棺の中には遺体に添って、鏡が入れられた。この埋葬方法は北部九州における権力者の埋葬方法に倣ったように考えられているが、それほど単純ではない。貴人の埋葬は内物部が執り行った。その物部氏の『先代旧事本紀』は記す「この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた。そのため、神の物と天皇の物は、いまだはっきり分けられていなかった」。このことは、天照大神が天降る予定であった天忍穂耳に宝鏡を授けて言った「与に床を同じく殿を共にして斎鏡とすべし」(『紀』)と同義である。それゆえ、被葬者の権力の象徴であった宝鏡(舶載鏡あるいは大王(天皇)から下賜された仿製の内行花文鏡)は棺内に遺骸に添えて入れられたのである。常世でも、床を同じく殿を共にして斎鏡するためである。三角縁神獣鏡の副葬が盛んになっても三角縁神獣鏡は棺外に置かれた。それらは、鎮魂用の明器であったからである。棺外に置かれた三角縁神獣鏡は、神の加護を得る事が出来るように神獣の文様のある鏡背を遺骸の方に向け、鏡面を表にして金色に輝いた。神を敬う崇神天皇の意を体した物部の葬送流儀であったのだ。このように、崇神天皇の時代から、三輪山山麓に広がる纏向で造り山墳墓の築造がはじまり、それにあわせて三角縁神獣鏡の副葬が行われたとしたい。