十代崇神天皇
(10)天皇の政治と纏向の土器

   崇神十二年、課役を定め、男は獣肉や皮革製品、女には織物を課した。まだ、年貢米は無い。崇神王権は、国が安定したこの年から租税を人民に課しており、六年の農民の流離は重い課税が原因ではないことは確かである。私は、銅鐸祭祀の禁止がその原因と考えている。

   崇神十七年、船を造らせる。河内湖から大和川を利用した纏向までの水運のためであろう。もちろん淀川の水運のためでもある。奈良盆地に急流の川は無い。往時は、船で川を遡上するときには、棹を差したり、櫓を漕ぐだけではなく、舳先に縄を取り付け、川岸から縄を引っ張って船を曳いたりもした。馬を使った運搬はまだなかったのであろうか? 物資の運搬で関連するのが、纏向で多数出土する外来土器の瓶や壷である。私は、土器に詳しくないので深入りはしないが、1971〜1975年の調査で出土した土器844個の検査報告がある(Web)。そのうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものである。地元の纏向土器は纏向1式、2式および3式と分類されている。そして外来土器の内訳は東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%とされ、九州関係土器は皆無であるとのことである。丁寧な分類である。浅学なのかもしれないが、その土器の使用法を示した報告を私は見ない。発掘者は、当然土器は、祭祀や煮炊きに使うか穀物の貯蔵に使うと考えているのであろう。しかも、搬入土器が多いのは纏向が政治経済の中心地であったため地域間交流が活発であった証拠としている。しかし私は不思議に思う。例えば、吉備の人が纏向に来るとき、炊飯は吉備土器に限るとして吉備土器をわざわざ持参したであろうか? 近江の人が湯を沸かすには近江土器でなければならなかったのか? そのような事はありえない。在地の土器を物の煮炊きに使えばそれで良い。九州関係土器が無いとするが、私は纏向に多数の九州人が移住し、崇神王権を建てたと考えている。纏向土器こそ現地の九州人が作り使用した土器ではないのか。私は、外来土器に注目したい。いったい土器で何を運んだのかということである。近江系土器以外の土器であるが、塩の運搬に使ったと考えたい。奈良盆地はまわりを山で囲まれ、海に面していない。纏向周辺には岩塩鉱山は無い。人間も他の動物も塩は必須なのである。故に纏向で暮らす人々のため、東海地方や吉備などから塩を土器に入れて運んだのである。往時は土器製塩である、濃い塩水を作り、それを土器に入れて煮詰め、塩を得る。濃い海水を作るためには乾燥した気候が必要である。あるいは海藻を採取して乾燥し、それを燃やして藻塩を作る。それにしても、乾燥した気候が必要である。近江以外はいずれも製塩が可能である。ここで問題になるのが、東海系土器と吉備系土器の差である。東海系土器が圧倒的に多い。渥美半島で5口の銅鐸が検出されているのも、塩の供給が関係しているのではないだろうか。塩と銅鐸の物々交換である。東海地方の塩詰土器の運搬は、伊勢湾を渡り、対岸の雲出川を遡って御杖村から陸路で宇陀に至ったと想像される。重い塩詰土器の陸上運搬は天秤棒を使えばそれほど困難ではないだろう(昭和40年代になってもまだ、金魚を入れた木製の盥桶を天秤棒で担いだ金魚売りがいた。大和郡山から来ていた)。反面、吉備系土器は少ない。古代の吉備には土器製塩の大きな遺跡(岡山県牛窓町の師楽遺跡など)が多くあり、製塩が盛んであった事がわかる。しかし、吉備系土器の検出が少なすぎる。纏向では、東海地方の塩の交易が吉備の塩の交易を圧迫していたのであろうか。まるで江戸時代の吉良家と浅野家の塩販売をめぐる騒動のごとくに。そうであれば、古代のロマンも広がるのであるが、そうではないであろう。吉備からは船を使えば、河内湖と大和川経由で纏向に至る事ができ、塩壷の運搬は容易である。そのため纏向で消費された塩の壷は再利用されたのであろう。それで纏向に残らなかった。東海地方からの塩壷の搬入は一方通行のため、壷が蓄積されたのだ。私は、纏向に外来土器が豊富なのは、人の交流ではなく塩の搬入が盛んであったためと考える。先に述べた珍彦も吉備の塩を大和に運んできていたのだ。それゆえ瀬戸内海航路に詳しく、大和国内の地理にも明るいため磐余彦=神武を道案内できたのだ。その報償として倭国造にとりたてられたのだ。私は古墳の中に土器を埋納する理由の一つに、死者の常世での生活のため塩を贈ったと考える。土器での搬入は、その他では魚介類の塩蔵品もあったかもしれない。近江系土器がそれにあたる。当然中身を消費すれば、煮炊きや貯蔵に使えば良い。時代が進んで、応神天皇の時代になると、塩は籠(稲藁で作った袋)で運搬されたようである。

   崇神六十二年、「農は天下の大きなる本なり・・・大いに池溝を開りて、民の業を広めよ」との詔をだして、依網池、苅坂池や反折池を大和や河内に作らせた。この池溝工事は十月、十一月の農閑期に人民を動員して行っている。土地は王家、神社(神地、神戸)、権力者や豪族が所有しており、大半の農民は小作であったはずである。農閑期は職もなく、従って食にも困る。公共事業を行って、人民を養ったのだ。つまり、人民に職と食を与えるため大規模な土木工事をいくつも行ったといえる。