十代崇神天皇
(6)倭迹迹日百襲媛と蛇鈕の金印

   倭迹迹日百襲姫の話に戻ろう。では、崇神紀に記された倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚は何を意味するのか? 倭迹迹日百襲姫はかなりの高齢であったようである(孝霊天皇か孝元天皇の娘『紀』)。若い美女好みの大物主の嗜好に姫は合わない。つまりこの物語だけ、他とは趣向が異なると言える。通説では、三輪山の神はもともと蛇であったとする(山の形が蛇が蜷局を巻いた様に見えるからだそうだ)。つまり、蛇が形姿威儀な壮夫に化けて、活玉依姫など人間の若い美女と共婚あったことになる。お伽話好きの記紀の研究者は、倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚もインドネシアなどの南方から伝わったお伽話と理解しているようである。果たして正しい理解であろうか? 私は、この倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚が、オリジナルになって、三輪山の神は蛇神であるとの伝承が生まれたと見る。通説の常識とは逆である。『記紀』のお伽話は必ず史実を語っていると私は理解している。では、その史実とはなにか? 考えてみよう。

   姫の櫛箱に入っていたのは美麗な小蛇であった。この美麗な小蛇が関係する史実がある。それが「漢委奴国王」金印と「親魏倭王」の金印である。「漢委奴国王」印は発掘され、蛇鈕をもち、印面は2.3cm四方であることがわかっている。蛇鈕を持つ小さな金印である。「親魏倭王」の金印の実像はわかっていないが、『魏志倭人伝』の内容から、同様に蛇鈕を持つと考えられている。私は、神武(=崇神)天皇に宇摩志麻治が帰順した時、卑弥呼から伝承された「親魏倭王」の金印も神武(=崇神)に召し上げられたと考えている。そして、崇神五年の疫病流行と、六年の百姓の離反という国難を倭迹迹日百襲姫の霊力で解決できたと信じて、崇神天皇は喜び、姫に褒美として蛇鈕の金印を与えたのだ。姫は美麗な宝物を得たとして喜び、櫛箱に入れて、昼も夜もそれはそれは大切に慈しんだのであろう。崇神十年に大叔父の武埴安彦・吾田姫夫婦が謀反を起こした時も、姫の洞察力によって謀反を察知する事ができ、崇神天皇は謀反を鎮圧できた。信心深い崇神天皇は、武埴安彦・吾田姫夫婦の謀反も三輪山の神の祟りがまだ収まっていなかったためと解釈した。それで、姫が大切にしていた蛇鈕の金印を召し上げ、三輪山の山頂の磐座の元に埋納し、神を鎮めようとした。宝物を失った姫は、嘆き悲しみ、終には陰部を箸で突き刺して自害した。それを知った崇神天皇は姫を哀れみ、大きな陵墓を築いた。昼は人が造り夜は神が造った。それが箸墓である。

   この蛇鈕の金印の顛末が、倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚として伝承されたのである。いかがであろうか?

   私は、「親魏倭王」の金印は、三輪山の山頂の磐座の元に埋納されていると予言したい。現在に至るまで、三輪山山頂の岩座には結界の注連縄が張られ、禁足になっている。「親魏倭王」の金印を護るためである。建甕槌の娘の大田田根子(意富多々泥古)が三輪山の祭主となっていたことで、結果として、宇摩志麻治と物部氏は卑弥呼の金印も王権から取り戻し、三輪山山頂に護る事になったのだ。

   以上述べたように、纏向を含む唐子・鍵の地域に暮らす人々は、三輪山を農業に重要な冬至を教えてくれる山として崇拝したのである。三輪山の神(大物主)が蛇神であるという伝承はこの倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚から生まれたのだ。文系の学者は、文献読みだけで三輪山の神が雷蛇神であったがゆえに敬われたと解説する。しかし、勢夜陀多良姫も活玉依姫も蛇男と婚あったとはしていない。活玉依姫の夫が夜に戸の鈎穴から出入りしたとするのであれば、ムカデでもヤモリであってもかまわない。倭迹迹日百襲姫のとき初めて、蛇神と夫婦になったとしているのである。また、蛇神婚譚をインドネシアあたりから伝来したお伽話であるとする。しかし、この通説には何の根拠も無い。文系の学者は、机に向かって文献読みするだけではなく、現地におもむき、三輪山を観察し、その意味を悟って、記紀を解説して欲しいものである。