目次
第五章
崇神天皇と神々の祟り
十代崇神天皇
(16)皇后御間城姫の出自
最後に、崇神天皇の出自で気になる事がある。『記』では。第八代孝元天皇の妃の伊迦賀色許売(いかがしこめ)を庶母とする第九代開化天皇が、その伊迦賀色許売と結婚してなした御子の御真木入日子が崇神天皇になる。その妹が御真津比売=御間城姫(みまきひめ)であり崇神天皇の皇后と同じ名前を持つ。『紀』では、同じく庶母の伊香色謎(=伊迦賀色許売)を、開化天皇が皇后として御間城入彦(=御真木入日子、崇神天皇)を成すが、妹はない。『先代旧事本紀』も『紀』と同じ様に記す。このように崇神天皇は庶母の御子として生まれている。これと同じ生まれ方をしたのが、磐余彦(=神武天皇)である。ここにも神武天皇と崇神天皇の重なりが窺える。崇神天皇をモデルにして磐余彦の出生譚ができたのだ。
ついで、崇神天皇の皇后の御間城姫に関しても不可解なことがある。御真津比売=御間城姫はのちの垂仁天皇の帝母になる重要人物である。『記』では崇神天皇記で「大毘古の女(むすめ)」として紹介するとともに、開化天皇記で御真津比売は御真木入日子つまり崇神天皇の妹として紹介されている。また、「大毘古の女」と紹介されるが、孝元天皇記には大彦々(後の開化天皇)の兄として大彦が紹介され、その御子として建沼河別と比古伊那許士別の二人が記されるものの御真津比売の名は無い。不思議である。他方、『紀』と『先代旧事本紀』では垂仁天皇紀で初めて「大彦の女」と記す。しかし、両書ともに大彦の子供達の記述は無く、したがって、御間城姫の紹介は無い。また、開化天皇紀では開化天皇の女としていない。ようするに、御間城姫は崇神天皇の同母妹なのか、あるいは従伯母(または従叔母)なのかよく分からないのである。そして二人の「ミマキイリヒコ」と「ミマキヒメ」とは一対の名である。一対の彦姫名は、宇佐津彦と宇佐津姫、あるいは狭穂彦と狭穂姫のように兄妹の関係で使われる。そうであれば、御間城姫と崇神天皇は同母兄妹結婚ということになる。この同母兄妹結婚が、垂仁天皇の皇后狭穂姫と兄の狭穂彦により再現される事になるのだ。ただし、この時代、同母兄妹結婚がタブーであれば、「大毘古の女」としての御真津比売と崇神天皇の妹としての御真津比売は同名の他人と判断することになる。『記紀』と『先代旧事本紀』ともに御間城姫を「大彦の女」としているから誰も疑問に思わないのであろうが、よくよく検討してみると御真津比売(御間城姫)の出自はよく分からないのである。出自が分からない皇后には、神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛(富登多多良伊須須岐姫)がいる。三輪山の大物主の娘とされているが、神の子などいるはずない。どちらの皇后も出自は後付けであろう。それだけではない。御間城姫以外の妃の子たちには、すべて「イリヒコ」「イリヒメ」の名が付けられているが、御間城姫の子は、「イクメイリヒコイサチ」(後の垂仁天皇)以外「イリ」が付けられていない。また、普通に付けられる「・・・氏の祖」というような祖述を、御間城姫の子たちには全く記されていない。一代で消滅しているようにみえる。この皇后の出自と系図の混乱は、崇神天皇の事蹟の一部を神格化した神武天皇の事蹟としたことに起因するのであろう。実在の可能性が高い崇神天皇の帝母および皇后でさえも、先代の天皇を創作したことによる矛盾が及んでいるのである。