十代崇神天皇
(4)銅鐸祭祀の終焉

   次に銅鐸祭祀の終焉に話を移そう。崇神六年に、百姓の流離、背叛が起こった。なぜであろう? 百姓に政治的意図は無い。治めるのが大國主であろうが崇神天皇であろうが、米作りには関係ない。 百姓の最大の関心は日照である。日照が無ければ、米も雑穀も実らない。百姓は日照と豊作を銅鐸に祈っていたのである。崇神天皇は、銅鐸祭祀をやめさせた。銅鐸は崇神天皇に祟りをなしたと覚えさせた天照大神(鏡)とともに、卑弥呼の表徴であり、邪馬台国と不弥国の表徴でもあった。狗奴国出身の崇神天皇が本州島や四国島に権力を及ぼすようになったことにより、邪馬台国と不弥国の表徴は邪魔になったのである。それで、銅鐸祭祀をやめさせた。農民は、豊作を銅鐸に祈っていた。銅鐸祭祀をやめれば、日が消失し、日照不足になり凶作が起こることを農民はおそれ、崇神天皇の施策に反旗を翻し、離農、流離したのである。しかし、大物主大神を大田田根子に奉祭させることにより五穀豊穣を経験した崇神天皇は、銅鐸を用いた豊作祭祀を全国的に禁止したのだ。また、正しい政治を志す崇神天皇は、神は祠や神社に祭るものであり、銅鐸の祭祀は邪道と覚えたのである。農民は仕方なく天皇の施策を受け入れた。また、神武=崇神天皇に帰順した邪馬台国後裔も卑弥呼の表徴である銅鐸の祭祀を断念せざるをえなかった。農民は、豊作祭祀の銅鐸をむげに破壊する事は出来ず、邪馬台国後裔の指導のもと人目につかないよう、住居から遠く離れたところに埋納抗を掘り、丁寧に埋納したのである。単に穴を掘って埋めただけではない事は、銅鐸の出土状況からも読み取れる。村にあったあらゆる種類の銅鐸は一斉に埋納された。加茂岩倉遺跡その他で、型式の異なる銅鐸が入れ子状態で埋納されていたのはこの証左である。そして、銅鐸祭祀は終焉した。また、天皇は銅鐸祭祀の記録も記憶も許さなかった。それで人々は銅鐸祭祀も銅鐸埋納も忘れ去ってしまったのである。広形銅剣、広形銅矛、広形銅戈の祭祀も正当とは見なされず、銅鐸と同じ運命をたどった。出雲の神庭荒神谷に銅鐸と一緒に広形銅矛も丁寧に埋納されていたのはこのためである。ただし、その後、倭大国魂神の祟りの件で、大國主大神の祭祀の必要性を悟った崇神天皇は、大國主が諸国を治めるのに広矛を使った(「天孫、若し、此の矛を用いて国を治らば、必ず平安ましましなむ」)ことを知り、広形銅矛の祭祀は受け入れた。崇神天皇は、物部氏に矛と楯を作らせ、墨坂神や大坂神などに献納している(崇神九年条)。