「漢委奴國王」金印はなぜ志賀島に秘匿されたのか

   「漢委奴國王」の金印は、江戸時代に福岡県福岡市東区志賀島叶ノ浜あたりで「一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中」から発掘された。印字の読みは三宅米吉により「漢の倭の奴の国王」と解され、これが一般的になっている。『魏志倭人伝』に登場する奴国を古代の儺県(なのあがた)、いまの福岡平野に比定されて以来この説が有力である。しかしながら、この読み下しでは、「倭国の中の奴国の王」となり、国名が二重に記され、不合理であるとの指摘がある。私も同意見である。他方、「漢の委奴(いと)国王」と読み下す説もあり、委奴国を伊都国に比定している。しかし、金印が見つかったのは、志賀島であり、奴国比定地となり矛盾する。現在、奴国と伊都国は、博多湾をはさんで、北東側(志賀島を含む旧儺県)が奴国、南西側対岸が伊都国と比定されている。私は、後漢光武帝からこの金印を下賜され際(57年)にはまだ、両国が並立することはなく、この地域は金印のごとく「委奴(ゐな)國」と呼ばれていたと考えたい。『後漢書』倭伝が記す「建武中元二年 倭奴國 奉貢朝賀 使人自称大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南の界なり。光武、印綬を以て賜う)の「倭奴國=委奴國」である。また、『旧唐書』倭国・日本国伝(945年)が記す「倭國者 古倭奴國也」の「倭奴國」である。光武帝は漢を再興した後、周辺の半島および列島の情勢を気にかけていたのであろう。そこに列島の倭国の情報がもたらされ、大いに喜んだに違いない。ところが、ここで気になる記述がある。なぜ、倭奴国が「倭国の極南の界なり」なのであろうか? 先にも示したように倭奴国は現在の博多湾周辺にあり、九州島の北端といってもよい。後漢王朝は、前漢に引き続き、楽浪郡から半島を経営しており、半島南端部は「倭国(倭人が居住する地域)」と見なしていたのではないだろうか。『三国志魏書』弁辰伝は記す「國出鉄 韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鉄」(国鉄を産する。韓人、濊人、倭人、皆ほしいままにこれを取る。市場での売買には皆鉄を用いる)。この記録から言えるのは、古来、弁辰に倭人が居住する地域(倭人の国)があったのだ。後に倭人は在住者だけではなく九州島北部の倭人も弁辰に渡航し、製鉄をして、倭国に持ち込んでいたのである。光武帝は、倭奴国の大夫の朝貢により倭国が九州島にも広がっている(「倭国の極南の界なり」)ことを確認できて喜び、「漢委奴國王」の金印を下賜して、倭奴国を後漢の冊封に組み込んだのだ。

   それでは、なぜ、奴国に比定される志賀島に金印が埋納あるいは秘匿されたのであろうか? 57年、金印が倭奴国にもたらされた結果、倭奴国に争乱が勃発した。「原伊都国」の族長は、後漢王朝による王位叙命を「原奴国」の族長(倭奴国王)に出し抜かれてしまったと考えた。そして、両部族の間に覇権争いが勃発した。「原伊都国」の族長は周辺部族を味方に引き入れて、「原奴国」の族長を攻撃した。結果、「原奴国」の部族が敗北し、その族長(倭奴国王)と高官が金印を志賀島に秘匿して、「原伊都国」の族長に奪われるのを防いだ。その後、倭奴国は「奴国」と「伊都国」に分裂してそれぞれ独立した国になった。そして旧倭奴国国王と高官達は、遠所に逃れ住んだ(伊都国の軍隊に捕縛されれば、金印の所在地の自白を迫られるからである)。これが、金印秘匿に関する事の顛末であると、私は考える。順次後述するが、大和王権時代に、奴国の安曇氏は暫時、衰退することになり、金印の秘匿は人々の記憶から消失したのである。

*補1. 蓋國と多鈕細文鏡

   歴史を遡って考えてみよう。華夏の史書の『山海経』に遼東・遼西地域を支配した「鉅燕」という国が出てくる。これは、「大燕」という意味で、大きく国土を拡大した燕ということである。『山海経』(第十二 海内北經:紀元前後成立)は、「蓋國在鉅燕 南倭北倭屬燕」(蓋国は鉅燕に在り、南倭北倭は燕に属す[他の読み下しもあるが、私は採用しない])と記し、この時(紀元前285〜222年)、既に倭人は燕に属していたと伝える。鉅燕は遼東地域に版図を拡大したことから、この文章を素直に解釈すれば、蓋國と記された国は、おそらくは現在の朝鮮半島の北部から中部にあったと推察できる。半島の北部から中部にあった蓋國が、版図を拡大した鉅燕に取り込まれ、そのため半島南部の倭人(南倭)の居住域が鉅燕と地続きとなり、南倭が燕に略属するようになった。また、あわせて九州島北部の倭人(北倭)も燕に朝貢するようになったことを、表しているといえよう。司馬遷の『史記』もまた、国土を拡大した「燕」が半島を領有し、半島南部(真番)を略属させたと記す(Web)。この真番は、『山海経』の南倭のことといえようか。

   このことは、多鈕細文鏡の分布から読み解くことが出来る。なぜならば、多鈕細文鏡は、戦国時代晩期に流行した鏡である(樋口隆康 『古鏡』 新潮社)。つまり、燕が栄えた時代の鏡であるのだ。古型(祖型)である雷光型多鈕粗文鏡が、燕の版図であった大陸の旧満州地方(現遼寧省)の東胡族の墓から出土しているが、鏡面は平直であり、春秋晩期の鏡と想定されている。他方、凹面の鏡面を持つ星型多鈕粗文鏡および精緻な線影三角文を持つ多鈕細文鏡は、半島の現在の北朝鮮領域、および韓国の江原道・忠清南道から南部の慶尚南道・全羅南道において広く、数多く出土している。『山海経』にしたがえば、慶尚南道・全羅南道は、当時の南倭の地域に当たるといえる。そして、北倭にあたる九州島北部からも多鈕細文鏡が出土している。このことから、鉅燕が取り込んだ蓋国は半島の北部から中部に位置し、蓋國の地域でこの多鈕細文鏡が大いに発展したとみることができよう。このように考えると、多鈕細文鏡は鉅燕に領属した「蓋國の鏡」というべきである。

   多鈕細文鏡の鏡面は凹面となっているが、使用方法は姿見である。凹面鏡の焦点より遠距離であれば倒立像が映るが、焦点以内であれば拡大した正立像を映す。つまり、凹面鏡の焦点距離が、明視距離より長ければ、人は姿を拡大して見ることになる。多鈕細文鏡の鏡面の凹面がゆるやかであるのは、焦点距離を長くして大きな正立像を映すためであり、「姿見」で何ら問題はない。

   それでは、多鈕細文鏡を発展させた蓋國を構成していた種族は、なにか? 春秋戦国時代の華夏では、凹面の多鈕鏡は作られておらず、半島独特といえる。従って、漢族ではないであろう。半島での多鈕細文鏡の流行は突然に終わっている。燕は秦により滅ぼされ、その後、秦は漢(前漢)により滅ぼされている(紀元前206年)。この間、燕の旧地は混乱を極め、紀元前二世紀末に燕人の満が郎党とともに半島北部に進入し、いわゆる衛氏朝鮮を建てている。おそらく、燕滅亡とともに蓋國の地は濊貊や漢族(燕や斉の遺民)などの異民族の侵入を受けて、歴史上から消滅したのであろう。その名を『山海経』に残し、多鈕細文鏡を遺物として。

   多鈕細文鏡は、蓋國を取り込んだ鉅燕に略属した半島南部の南倭、および北倭の九州島北部域にも伝播していた。つまり九州島北部の倭人が燕と交渉を持っていたことは、博多湾沿岸域の小郡若山遺跡(福岡県小郡市)や吉武高木遺跡(福岡県福岡市)など、および唐津湾沿岸域の宇木汲田遺跡(佐賀県唐津市)さらに木村籠遺跡(佐賀市大和町)などの甕棺墓から多鈕細文鏡が出土している(安本美典「わが国最古の青銅鏡『多鈕鏡』鋳型の出土」『季刊邪馬台国』 127号)ことからわかるのである。

   往時、九州島北部にいた倭人は、早々に移入された多鈕細文鏡の仿製鏡を作っていた。半島と交易できない地域の首長の求めに応じたのであろう。それが、鏡の鋳型片が出土した須玖タカウタ遺跡(福岡県春日市)の工人であった。その工人は、倭人であったのか、それとも蓋國からの渡来人であったのかどうかは、わからない。したがって、日本で出土する多鈕細文鏡には、仿製鏡もあるといえる。

   また、韓国忠清南道大田市槐亭洞の墓から、星型多鈕粗文鏡に小銅鐸が伴出している(樋口隆康『古鏡』)。この小銅鐸は、弥生時代後期終末の大分県宇佐市別府(びゅう)遺跡のゴミ廃棄場から変形した状態で検出された小銅鐸と同型であるとみられる(Web)。この小銅鐸も多鈕細文鏡とともに移入されたものであるのか、それとも蓋國からの渡来人または亡命者の作になるのであろうか? 長年、使用された後、廃棄されたようであり(Web)、小銅鐸は、多鈕細文鏡とは異なり威信財とはなりえなかったようだ。

*補2. 倭奴国の考古

   前漢時代、漢王朝は半島の衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡を設置する(紀元前108年)。「夫樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と倭人の漢王朝への朝貢を伝える記事が、『漢書』地理志第八下の燕地条に記されていることから、楽浪郡は、かつて鉅燕が取り込んだ蓋国とはそれほど離れていない地域に設置されたと推察される。半島南部に居住した倭人のみならず、九州島北部の倭人は漢王朝が半島に設置した楽浪郡を介して、草葉文鏡および連弧文銘帯鏡・単圏双銘帯鏡といった異体字銘帯鏡などの前漢鏡を移入したと考えられる。あるいは楽浪郡を介して、旧燕地域を通り抜け、はるばる都の長安を訪れて皇帝に朝貢し、鏡などを下賜されたのであろうか。なかでも草葉文鏡は前漢中期に流行した鏡である。草葉文鏡を入れた須玖岡本D遺跡(福岡県春日市)の甕棺墓の主は、先取的に漢王朝に朝貢したといえる。福岡県春日市を含む原奴国域にいた人々は、いち早く多鈕細文鏡を仿製し、細型銅剣や銅矛を作製し、また前漢王朝に朝貢もしている。その後、57年、倭奴国の大夫が、漢王朝を再興した光武帝に朝賀したのも先取性の気質ゆえであろか。私は、本文で述べたように倭奴国王は、原奴国域の首長と見なしている。

   他方、前漢後期から流行した異体字銘帯鏡を埋納した立岩遺跡(福岡県飯塚市)および三雲南小路遺跡(福岡県糸島市)の甕棺墓の主はやや遅れて漢王朝に朝貢した。これら王墓と目される甕棺が、多数の前漢鏡を入れているのは、墓主が長旅の苦労の末に鏡を入手したことから、威信財として、および権威の象徴として独占したと、私は考える。

   伊都国比定地の井原鑓溝遺跡(福岡県糸島市)などには引き続き多数の新・後漢鏡(方格規矩四神鏡)を入れた甕棺墓が出土しており、考古学的にも、後漢にあたる時代、伊都国の王が勢力を強めたことを示している。反対に奴国比定地ではそのような墓は認められなくなっており、奴国の権勢は衰退したことが窺える。107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升(『後漢書』倭伝 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)こそ、この伊都国の王であろう。私は、帥升が献上した生口160人は全て、奴国から徴用されたとする。このような伊都国王の強権に不満を持つ集団が、奴国を離れ、新たに鉅奴国(狗奴国)を興したと考えるのである。そして洛陽に送られた生口160人は種々の技術者となり、その子孫が、239年、卑弥呼の遣使とともに邪馬台国に帰還し、倭国の技術(銅鏡、鉄器、麻布、絹布、建築、土木など)の発展に貢献したと考えたい。