目次
第一章
狗奴国を考える
海幸彦の族裔、阿多隼人・大隅隼人
それでは、『記』で、海幸彦が「此者隼人阿多君之祖」と割注されるのはなぜであろうか? 逆に言えば、この一文のために、「邇邇藝は隼人の国の阿多に天降りし、隼人の女神、神阿多都比売(木花之佐久夜毘売)と結婚した」と解されていると言える。私はこの解釈は誤りと見る。正しくは、山幸彦と兄弟喧嘩の末、喧嘩に敗れた海幸彦が、後に日向の南端(大淀川がつくる沖積平野)に逃れ、その地にいた原住民の女と結婚して家族を成し、原住民の魁帥(ひとごのかみ、首長)となったとしたい。部族の女と結婚して、その部族の族長になる事が、「何々氏族の祖」となることを意味すると考えられる。血縁家族の員数が増加することで、氏族が興される訳ではないのだ。その原住民が景行朝で「熊襲」と呼ばれ、仁徳朝の末期に「隼人」と呼ばれる様になった。それ故に、『記紀』編纂時に、海幸彦に「此者隼人阿多君之祖」および、「是隼人等始祖」とういう割注が付けられたり、「吾田君小橋等之本祖」と著されたと理解すべきなのだ。海幸彦の族裔は当然の事ながら「倭語」が話せた。『記紀』にはないが、『先代旧事本紀・国造本紀』に「大隈国造:纏向の日代の帝(景行天皇)の御世に平らげ治めた隼人と同祖の初小。仁徳天皇の御世には伏布を曰佐として国造に定められた」、「薩摩国造: 纏向の日代の帝の御世に薩摩隼人等を討ち、仁徳天皇の御世に曰佐を改め直とする」とある。熊襲・隼人は言語が異なっており、仁徳天皇は曰佐(おさ:曰し事を助けるの意)つまり通訳を置いている。この曰佐が、「倭語」が話せる海幸彦の族裔と見るべきである。このことから、熊襲・隼人は言語の異なる渡来人と見なされなくもない。そして、景行天皇紀にあるように、熊襲は旧贈於郡と旧球磨郡を拠点として暮らし、天武朝には薩摩半島と大隅半島に版図を拡大させていたのであろう。天武十一年七月条に、阿多隼人と大隅隼人の相撲の話がでる。これが、阿多隼人と大隅隼人の初出である。天武天皇の殯に、大隅・阿多の隼人が誄 (しのびごと) を奉っている。持統朝にも、「大隅隼人の相撲観戦、大隅・阿多の隼人の魁帥ら337人に賞を賜う」話が出る。このことから、天武朝に隼人の拠点に阿多郡が置かれた様にみえる。ただし、大隅隼人と阿多隼人とでは、墓制が異なっている。前者は地下式横穴墓、後者は地下式板石積石室墓 である(「地下式横穴墓・地下式板石積石室墓の時期と系譜について」 諏訪和千代 鹿児島県立博物館研究報告 7号 1988年)。それ故、大隅隼人と阿多隼人は異なる文化を持っていたと判断できる。海幸彦の族裔は宮崎県南部(襲=贈於)から薩摩半島の阿多に移ったのであろうか?
考えるに、大和王権の中央政府に隼人が確認されたのは、熊襲討伐をした景行天皇の時代であるといえよう。仁徳天皇の時代、隼人との対話に曰佐(通訳)が必要とされた。しかし、天降った邇邇藝は、初対面の木花開耶姫と通訳なしで会話が出来た。邇邇藝が隼人でないのであれば、木花開耶姫は阿多隼人の姫では決してありえないのだ。仮に木花開耶姫が隼人族であったとすれば、皇祖となり、皇族となった隼人族は、神武=崇神天皇の時代から京(みやこ)に出ていても不思議ではない。しかし、その記述は無い、仁徳朝の時代になって、隼人は京に移住させられているのだ。仁徳朝から「隼人司」に属して宮中で守護に当たることになる。武力による守護だけでなく、犬の吠え声を真似た儀礼が魔除けの力をもつと信じられた。また俳優、相撲、竹細工などを行い、特に「隼人舞」が宮中で好まれた。どうも、海幸彦の「守護と俳優」の活動が、後世まで伝わったようである。
それでは、なぜ、「日向三代」にでてくる地名・遺跡が、宮崎県南部、薩摩・大隅半島にも存在するのであろうか? 再度言う、キーワードは海幸彦一族である。山幸彦との宗家争いに敗れ、宮崎県南部に居を構えた海幸彦後裔が、木花開耶姫や豊玉姫、鵜葺草葺不合に関する伝承の地を創ったとしたい。特に天武天皇は、海幸彦を遠祖とする隼人族と非常に親しかった。天武天皇は、狗奴国人が日向国(主に西臼杵郡・延岡市・東臼杵郡・日向市)で行った本当の日向三代の事業内容を、隼人族がその根拠地の薩摩・大隅半島および宮崎県南部にコピーすることを赦した。「日向三代」の内容を阿多隼人の根拠地にコピーさせた天皇こそ、稗田阿禮と太安萬侶に『古事記』を編纂させた天武天皇であったのだ。では、なぜ天武天皇はこのような事を企てたのか? 天武天皇章で再度考察する。
『記紀』完成から約200年あれば、『記紀』に著された地名とともに宮跡や陵墓を構築し、その伝承を作ることはできたであろう。薩摩・大隅半島あるいは宮崎県南部にある伝承の地はあまりにも、『記紀』に忠実でありすぎる。そして宮跡や陵墓に関連する神社が『延喜式神名帳』(927年)に載せられ、既成事実化したのだ。その後も、歴代の島津氏、明治維新で大きな功績をあげた薩摩藩が、さらに伝説の地のブラシュアップに努め、現在に至ったと、私は考える。
一つの例を挙げよう。宮崎県日南市油津の吾平津神社は、磐余彦(神武天皇)の妃である「吾平」の名を冠する。「元明朝の和銅二年(709年)に乙姫神社(乙姫大明神を主祭神)として創建された。江戸時代、歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し県知事の意により、吾平津神社(あひらつじんじゃ)と改称された」。吾平津神社案内はこのように記す。
*隼人をインドネシアからの渡来人と見立てて行われた先学の「南方説話が記紀神話の起源」とする研究は、いい加減な考察に基づいていることが、おわかりいただけたであろう。先学の学説を復唱するだけでは、真の歴史は見えてこないのである。松村武雄・西岡秀雄・吉田敦彦・次田真幸およびその同調者が、南方説話が記紀神話の源流であるとする「記紀神話の南方説話源流説」は、壮大な虚構であると、私は判断する。
**邇邇藝が天降った地が、高千穂峡であるのか霧島連山の高千穂峰であるのかとの論争、つまり「高千穂論争」は、古くは江戸時代からあり、現在まで続いている。その論争の内容は、『邪馬台国はその後どうなったか』(安本美典 廣済堂)に詳しい。