日向高千穂宮での磐余彦

   玉依姫を母とする磐余彦(後の神武天皇)は子供のときから聡明であったとされている。日向の高千穂宮で祖父の邇邇藝と、奴国に三年間出向いて学んだ父の山幸彦から、兄の五瀬とともに帝王学、軍事、政治、外交を学んだとしたい。前述したように、私は、邇邇藝は狗古智卑狗(菊池彦)であると考えている。狗奴国は邪馬台国連合との対戦を続けてきた故に、邇邇藝は軍事の知識や経験が豊富であったであろう。狗奴国が本貫とする奴国には、後漢および遼東地域の公孫氏との交流もあり、帝王学や政治、外交に関する知識もあったであろう。それらを、奴国に出向いて学んだ父の山幸彦や奴国出身の玉依姫から薫陶を受けたとしても不思議ではない。『紀』では磐余彦は「『正義』を養われた」と記す。そのおかげで、東征における吉備、紀伊、吉野、大和での先住の豪族との外交交渉(懐柔)に成功し、戦闘にも勝利し、大和に王権を樹立することが出来たと、私は考える。しかも、初期王権は狗奴国の「正義」を守った。それは、「華夏の王朝に朝貢せず、冊封体制に入らないこと」であった(266年〜413年の間、倭国の朝貢がなかったのはこのためである)。

   仮に邇邇藝が邪馬台国出身であるとして、『記紀』と『倭人伝』の記述から推察して、権力者が殺戮し合ったあげくに女王(卑弥呼と台与)を擁立して国をまとめるような政治体制でしかなかった邪馬台国から、十分な帝王学、軍事、政治・外交を学ぶことはできなかったとすることは不合理ではない。また、一部の古代史の研究家が考えるように磐余彦が薩摩半島や大隅半島で隼人族と暮らしていたとして、インドネシアなどの南方島嶼からの渡来人から、どのようにして帝王学、軍事、政治が学べたと言えるのか。二、三世紀に南方島嶼に確固たる政治国家があったという史実を私は知らない。

   後に、磐余彦は日向の地で阿多の小椅君(おはしのきみ)の妹の阿比良比売(あひらひめ)と結婚し、二人の御子(多芸志美美と岐須美美)をなす「故、日向に坐す時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶る」(『記』)。吾田の小椅君は海幸彦の子孫である。磐余彦と姫はいとこかはとこになろう。神武紀では、「日向国の吾田邑の吾平津媛」となっている。つまり、阿比良は吾平である。『記紀』では、姫の名前は地名で呼ばれることが多い。邇邇藝一行が降臨した高千穂の高千穂町に吾平原という所がある。ここ出身の姫であったと考えられる。あるいは、熊本県菊池川上流の「菊鹿盆地(山鹿盆地)」に「吾平山相良寺(ごへいざんあいらじ)」と「吾平神社」がある。狗奴国は熊本県菊池川と方保田川に挟まれた台地の方保田東原地域を根拠地としていた。狗奴国領域に吾平(あひら)=相良(あいら)があったのである。ここ出身の姫が、日向の地で磐余彦と結婚したともいえる。いずれにしても、この吾平津媛も磐余彦同様に狗奴国人と見なすことができよう。山幸彦、鵜葺草萱不合そして磐余彦は、日向の地で、奴国の血統を保持し続けてきたといえるのだ。

   話が遡るが、邇邇藝が高千穂峡に天降りをするとき、天忍日と天津久米が先導している。天津久米は久米直の祖となっているが、久米氏という氏族はどういう氏族かよくわからないようである。ただ、神武東征には戦闘でずいぶん活躍している。また、神武天皇が大和国橿原宮に宮居した時、天皇が皇后とした伊須気余里姫(いすけよりひめ)を見つけ出した大久米が、黥利目(さけるとめ、入墨をした目)をしていた。黥利目は久米氏の特徴であろう。海棠槇人氏は、『海人の國、日本』(Web)で「阿曇氏も〔阿曇目〕といって、目の縁に入墨をしていたことからも、久米氏は、阿曇氏と同族だったのではないかと思われる」としている。であれば、阿曇氏は奴国を本拠地としており、邇邇藝の天降りに同行し、神武東征で活躍した久米兵士も奴国人といえるのではないか。先にも述べたように、日向灘に面した平野には狗奴国人と奴国人がともに移住して暮らし、人口も増加していたと、私は考える。まさに塩土老翁(旧倭奴国国王の裔)が願ったことが実現したのだ。また、この地には、邇邇藝から玄孫の磐余彦までの宮殿や陵墓などの伝承の地が今も残っているが、いくつかは真実であろうと私は思う。

   磐余彦は五ヶ瀬川上流の高千穂の宮で三人の兄らと暮らし、後に「正義」を周くべく「美き国」へと、多くの狗奴国人や奴国人を引き連れて、耳川河口の美々津(日向市)から東征に出発するのである。そして、場所を葦原中国(本州島)に移し、先に東遷していた邪馬台国連合との壮烈な覇権争いが、再び始まるのである。