木花開耶姫(木花之佐久夜毘売)

   まず記紀の記述を見てみよう。笠沙御前に至った邇邇藝は、大きな御殿を立てて機を織る美少女、大山津見の娘の木花之佐久夜毘売をみそめ、結婚する。姫は一夜の共婚(まぐあい)にして子を宿したため、邇邇藝に妊娠を疑われた。慍かった姫は、天神(邇邇藝)の子であることを証明するために産屋に火を放ち、その中で三人の子を生んだ。神の子であったため火照、火須勢理(火闌降、火酢芹、以下海幸彦とする)、火遠理(彦火火出見、以下山幸彦とする)は無事生まれた。『記』は火照を海幸彦とする。
   では、木花開耶姫を考えてみよう。彼女のニックネームが「木花開耶姫」であり、「木花之佐久夜(このはなのさくや)」という美称の通り美人であったのであろう。本名は、『記』では「神阿多都毘売」、『紀』では「鹿葦津姫」、「神吾田鹿葦津姫」、「神吾田津姫」「豊吾田津姫」あるいは「吾田津姫」なのである。その本名であるが、『記紀』では姫の名前は地名で呼ばれる事が多い。素直に考えれば、「阿多にいる姫」=「吾田にいる姫」となる。鹿葦津姫(かしつひめ)の「鹿葦」の地名は、私には判らない。『記』の「阿多」は、『紀』の「吾田」の書きかえとみれば、棲む人の少ない「空国」の「吾田」にいた姫と理解するのが妥当である。弥生人であったか、縄文系弥生人であったのかは不明である。しかし、彼女には「石長姫」というあまり美人でない姉がいたことを考えると、「石長姫」は縄文系の特徴を示しており、弥生人である邇邇藝の好みに合わなかったのであろう。父親の大山津見は、先住民の女とも婚って、娘をなしていたのだ。父親にしてみれば、貴人の邇邇藝に姉妹ともに嫁がせたかった。しかし、「石長姫」は娶られなかった。それで、恨み言の一つも言いたかったのであろう。なんと言ったかは、『記』を読んでいただきたい。それは世の娘を持つ父親の恨み節以外なにものでもない。
   一方、『紀』本文では、木花開耶姫の親について、天神が大山祇神を娶って、鹿葦津姫(木花開耶姫)を儲けたとなっている(「天神娶大山祇神 所生兒也」)。父親は天神であり母親が大山祇神と読みとれる。確かに後世、「山の神は女神」とされている。木花開耶姫の父親は天神とされ、天神と呼ばれる瓊瓊杵と同様に北部九州弥生人と解する事が出来る。それ故に、私は、木花開耶姫親子は倭奴国王の子孫と考えるのである。また、付記すれば、『紀』の磐長姫の呪いの言葉は、前述したように猿女君による脚色としたい(美醜は猿女君にとっても重要関心事項であったであろう)。

   木花開耶姫の説話に戻ろう。火中出産は、邇邇藝に妊娠を疑われた姫の慍と意地を強調したフィクションとしたい。当時、出産時の血の穢れを祓うため、産屋を焼却することは普通であったのであろう。姫の出産時、「児の臍の緒を竹刀で切り、捨てた竹刀が根付いて竹林になった」(『紀』書三)とある。生物学的に竹の切れ端が根付いて竹に成ることなどあり得ないし、したがって後世に残る竹薮を形成することは無い。竹の成長は非常に早い。竹林云々は、姫の児の健やかな生長を竹の旺盛な成長で予祝したといえる。この逸話は猿女君の創作になるとしたい。『書五』の木花開耶姫と瓊瓊杵のやりとりはもっと過激である。妊娠に対する男の無理解さとそれを恨む姫の心情を、猿女君は最大限に表わしたといえよう。出産後、姫は恨んで、瓊瓊杵と同床しなくなった。それを瓊瓊杵が嘆いて歌う「沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ」(『紀』書六)。宜成るかなである。この歌は女心のわかる猿女君の作であろう(『記紀』の解説の様な後世の都の歌人の歌ではない)。結局、木花開耶姫はそれ以後、児を成さなかった。