薩摩・大隅の隼人と南方説話
(2)釣鉤喪失譚

   日向三代の海幸彦・山幸彦譚のハイライトは、釣鉤喪失譚、異境探訪譚、和邇に乗る話、八尋和邇出産譚であり、これらも南方方面の説話に源流を持つといわれている。果たしてそうであろうか。「釣鉤喪失譚」は、インドネシアのスラウェシ島、チモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島あるいはミクロネシアのパラウ諸島に類似の話があるという。先述したように、一体どのような隼人族の賢者が、言語が異なる各々の島の説話を理解し、統合して一つの物語として仕立て上げたというのか?

   往時は、漁労、狩猟、農耕が主な生活の糧を得る方法である。今でも経験するが、釣りに行って、鉤を魚に持っていかれる事はたびたびある。渓流釣りの毛鉤やバス釣り用のルアーには、達人たちは熱心に工夫を重ね、当たりのよい鉤は宝物のごとく大事にする。海幸彦は漁労を生業にしているから、当たりのよい鉤は心底大事にした事は当然である。その鉤を山幸彦が魚に持っていかれてしまえば、海幸彦が激怒するのも当たり前であり、兄弟喧嘩になる。また、山幸彦が海神宮でマダイから海幸彦の釣鉤をとりもどす話も、マダイのように地(根)付きの魚の場合、他人の釣鉤のついた個体が釣れる事もあるので、特段に変わった話ではない。漁労をする古代日本人にとって、「釣鉤喪失」は日常であったはずである。

   また、海神が、取り戻した釣鉤に、海幸彦が不幸になるような禁厭(まじない)を懸ける話がある。往時の倭国では、禁厭は珍しい事ではない。まず、卑弥呼がいる(『魏志倭人伝』「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」)。また、少名毘古那は、稲の害虫を攘(はら)う「虫やり」の禁厭を行っている(『紀』)。そして何より『皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ』も禁厭である。このように倭国では禁厭が行われていたことは確かである。私は、山幸彦が訪れた海神宮は本貫の奴国であると考えている。そこで、物に禁厭をかける方法を教わったとおもう。禁厭を懸ける物は、所有者が大切している物、あるいは対象者の身体の一部(爪、髭や髪の毛)ほど効き目が大きいと言われている。海幸彦が大切にしていた釣鉤に「貧窮の本、飢饉の始め、困苦の根」と禁厭をかけることは、あっても不思議ではない。