天鈿女と猿女君

   猿田彦を送った後、笠沙御前に還った天鈿女は、浜で魚たちとたわむれる。それが、「嶋」からの速贄(海の幸の初物)献上の由緒話であるが、この「嶋」も三重県の「嶋=志摩」(『先代旧事本紀』国造本紀)ではなく、日向市の「細島」であるとすべきである。磐余彦の時代に「鉾島」と呼ばれることになるが、それ以前には名前がなかったのだ。それで単に「嶋」とされたのである。「細島=鉾島」からの海産物の初物が、邇邇藝から磐余彦が暮らした高千穂宮に御世々々献上された由緒を説くと理解すべきである。そして、宮に居る猿女君たちが初物のお裾分けを授かったのだ。

   では、猿女君はなぜそのように厚遇されたのか? 猿女君は通説のような巫女ではなく、美女軍団であったとするべきと、私は思う。ただし、北朝鮮の美女軍団のようなものではない。スマート(頭脳明晰)な女性の集団ということである。彼女達は、「舞と誦」で歴史を記憶して伝承する職能集団であったのだ。 現在の我々は、古代の歴史は、エジプト、メソポタミア、中国のように文字をもって石、粘土板、金属器に刻まれた金石文を正史と見なしている。それで、文字を持たなかった日本の古代史は、飛鳥時代以降の後世に作られた説話ともされてきた。しかし、私は古代日本人が既に「記録媒体」を発見し、自分達の歴史を記録してきたとしたい。その「記録媒体」は「人の脳」であり、記録方法は「誦と舞」である。しかもバックアップをしっかりと備えていた。それが猿女の集団であったのだ(猿女君には男性も属していたことを書き足す)。天鈿女は祭りの俳優のストリッパーではない。「伴緒(とものお)」、つまり、猿女の集団の長であったのだ。長である証に、結った髪に鈿(かんざし)を刺していた。邪馬台国にも狗奴国にも、また出雲国にも猿女君が居て、それぞれの国の歴史を「誦と舞」で、代々伝承してきたのである。それが、猿女君の職掌であったのだ。古来、倭国は華夏の歴代王朝に朝貢してきていた。そのため、華夏の王朝がその歴史を筆録して伝承していることを理解していた。日本人も国の歴史を記録することの重要性をしっかりと理解していたのだ。それが、猿女君の「誦と舞」であったのだ。人の脳は長い台詞を記憶するには限界がある。しかし、誦に舞などの動作が加わると長い台詞も容易く記憶できる。その代表例をオペラに見る事が出来る。
   蘇我蝦夷の変(645年)で、紙に記録された史書が火災で灰燼に帰しても、古代史の記録が残り、八世紀初頭に『記・紀』さらに『風土記』が編纂できたのは、「人の脳」という「記録媒体」があったお陰である。それが猿女君の誦による伝承であった。したがって、猿女君は固有名詞ではなく、歴史を記録する職能集団の一般名であると考えるべきなのだ。『紀』の本文に加え「一書曰」とあり、内容が微妙に異なるのは、誦を伝える猿女君の系統が異なっていたことに起因するといえる。そして猿女君の誦の集大成をした人物こそが、天鈿女を職掌の祖とする猿女君の稗田阿禮であったのだ(「稗田阿禮語る所の古事記是也。阿禮は宇治土公庶流。天宇受賣命の末葉なり。」『斉部氏家牒』大倭神社註進状 Web)。

   後述(第二章)するが、「天照神話」は『倭人伝』が記す邪馬台国の卑弥呼と台与の話とよく合う。これは、邪馬台国にいた猿女君が、卑弥呼と台与の活動、および古代人には驚天動地であった皆既日食の出来事を、「天照大神という誦」にしたてて伝承したのだ。「天照大神神話」は、猿女君が記録した邪馬台国の歴史であるのだ。また、後述する邇邇藝から磐余彦にいたる日向三代の歴史も猿女君が物語にしたてて、後世に伝えたのである。勿論、素戔嗚と大國主の活躍を伝える「出雲神話」も、出雲の猿女君が後世に伝えたのである。これら猿女君による「誦と舞」は、日本版ホメーロスの叙事詩といえよう。
  歴史を猿女君が伝えたという証拠は、『記紀』のいたるところに見いだされる。それどころか『記紀』の観点が大いに「女っぽい」といえるのだ。先立って紹介するが、例えば、木花開耶姫が妊娠を瓊瓊杵に疑われた時の姫の誓約の言葉には、処女をささげて媾(まぐ)あい、身籠ったことを疑う愛人のことばに傷つき、悲嘆し、憤怒する女心があふれている。木花開耶姫、石長姫、豊玉姫、狭穂姫そして弟橘媛等々の説話は、全て女性の心情の発露である。とても後世の奈良の都の舎人が描写できるものではない(梅原猛のいう藤原不比等もまたしかり)。また、『記紀』に凄惨な殺人の記述が少ないのも、イベントを女性が脚色して伝承した証左になるといえよう。
   猿女君は、紙と墨による筆録が確立されるまで、活躍した。その後は、職掌が無くなり、歴史から消えようとした時、再度猿女君の誦が必要とされる時代が訪れるのである。そして、その誦の内容を理解した人物が歴史上の大事件を興すのである。詳細は天武天皇の章で記す。

*「天照神話」も「出雲神話」も、そして「日向三代」もお伽話(ファンタジー)とするべきではない。猿女君が脚色して伝承した古代日本史なのである。

**全国に広がる猿田彦、天鈿女、猿女君の信仰は、『記紀』の記述のつまみ食いである。後世、お多福に表される天鈿女および天狗や道祖神などに模される猿田彦大神は、本質を捉えられていず、二柱には誠に気の毒なことである。しかしながら、この派生を生み出したのも、日本人の特性であるといえる。

***『記紀』の記述において、誰しもが疑問に思うのは、なぜ、「邇邇藝の天降り先が、大國主が国譲りした葦原中国(本州島)ではなく、九州島の日向国であるのか?」であろう。その答えは、前述した様に、邇邇藝は邪馬台国人ではなかったからである。『記紀』の記録において、邪馬台国の饒速日(にぎはやひ)と狗奴国の邇邇藝(狗古智卑狗=菊池彦)を兄弟関係(ともに天孫)に仕立て、邪馬台国の本州島への東遷とその後の卑弥呼の後裔の活躍譚を希薄化させた人物が後世に出現する。その人物こそ、『記紀』編纂を発案した天武天皇である。なぜそのようなことをしたのか? 天武天皇章で詳述する。