霧島連山の高千穂峰

   他方、邇邇藝の降臨の地を霧島連山の高千穂峰とし、薩摩半島の旧鹿児島県川辺郡笠沙町(吾田の長屋の笠狹=現南さつま市)の野間岬に到ったとする説(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』所収)もある。『記』にはないが、『紀本文』は「日向襲之高千穂峯」としている。この「襲」を「曽於」と解釈することで霧島連山の高千穂峰が天降りの地に比定できるのである。また、笠狹碕は野間岬を読み替えなければならない。この説は、地理の読み替えをしない限り成立しないのである。最も重要なことは、薩摩半島にも大隅半島にも伊勢の海と五十鈴川が無いことである。ここには、邇邇藝を野間岬に先導した後の猿田彦および天鈿女の行き先がないのだ。霧島連山の高千穂峰への天降り説は、猿田彦および天鈿女を伊勢国(三重県)の海人とすることでしか、成立しないのである。しかし、鹿児島県の野間岬と三重県の伊勢市の間に遠大な距離が存在する。この時空をどのように克服するのか? この説では物理的に解決は不可能である。では、仮に、猿田彦を伊勢国の海人としよう。伊勢の海人であれば、タイラギは伊勢湾にも棲息するので、貝に関する知識を持っており、貝に手を挟まれて溺れ死ぬというようなへまはしない(猿のへまは木から落ちる事である)。故に、猿田彦の出自は伊勢国の海人としてはいけない。猿田彦は海に慣れていない阿蘇の国神であるとするのが合理的である。同様に猿女となった天鈿女も伊勢国の海女とは全く関係ないとするべきなのだ。先学のように飛鳥・奈良時代の宮中にあった(かもしれない)志摩国からの贄物の献上が神代紀に反映していると解釈しては、だめなのである。後世の『記紀』の解釈は、猿田彦および天鈿女に関して、完全に間違っているのだ。猿田彦および天鈿女は邇邇藝の降臨の地を決定するキーパーソンなのである。この二人の説話を考慮しないで、霧島連山の高千穂峰を邇邇藝の降臨の地と比定してはだめなのである。

   垂仁天皇の時代(垂仁二十六年)に、旧度會郡(三重県伊勢市)に伊勢神宮が創建されたことにより、『記紀』に記された伊勢が全て、伊勢国と解釈され、それにちなんで多くの伝承が創られ、関連する神社が伊勢国に建てられたと、理解すべきである。あるいは、崇神天皇の勅令(崇神六年)で、神社に祭られた土着の地主の神々が、『記紀』編纂後に、『記紀』になぞらえられた神々に変質して、後世に伝わったともできる。