山幸彦、海神宮を訪れる

   話を海幸彦と山幸彦に進めよう。海幸彦・山幸彦譚はあまりにも有名であるので物語の詳細の記述はここでは省略するが、ハイライトは山幸彦の海神宮(わたつみのかみのみや)訪問譚と海幸彦・山幸彦の闘争譚である。お伽話のようであるが、私は史実をふまえていると判断している。それでは、海幸彦と山幸彦の物語はどのようにして生まれたかを、考えてみたい。

   まず、海神宮訪問譚について、論考してみよう。舞台は、日向灘を臨む宮崎平野である。私は古地理学に詳しくはないが、往時はまだ沖積平野は広くなく、日向灘は大海原で、青島はまだ海中にあったであろう。青島は、砂岩と泥岩が交互に重なった地層からなる山が沈降して海に浸かり、波に侵食された後にわずかに隆起したとされる。そのため「鬼の洗濯板(岩)」と呼ばれる「隆起波食台」ができた(図8)。

宮崎県青島の鬼の洗濯板
図8. 宮崎県青島の鬼の洗濯板

現在では海抜6mである。日向灘では約200年間隔でM7.6クラス前後の地震が起こっているとされる(Web)。当然津波が発生していよう。それ以外でも日本近海で起こる地震津波や南アジア島嶼での地震による津波は当然日向灘沿岸を襲ったであろう。大津波の前兆として激しい引潮が起こる。その時、日向灘沖の青島が姿をあらわし、島まで陸続きになったであろうし、海底には引潮に取り残された無数の魚介類が散乱したはずである。このときはいくらでも魚を手づかみで捕獲できる(スマトラ島沖大津波の時、タイのプーケット島でも激しい引き潮が起こり、海底に多くの魚が取り残され、それを取りにいった人々が津波に襲われている)。津波の時、日向灘を臨む地域に住む人々はこうした情景を目にし、青島まで、漁籠をもって、魚介類を拾いに行ったと思われる。山幸彦が訪問した「綿津見神の宮」は魚鱗のように家を並べて造った宮殿と著わされている。青島の「鬼の洗濯板(岩)」の波浪による浸食は、往時には今日のように進んでいなかったはずで、まさに魚鱗のような家並を想起させたのだ。山幸彦が海神宮訪問まえに出会う塩土老翁(しおつつのをぢ)は、古の津波を知っていたのだ。

   大きな引潮の後には大津波が襲い来て陸地を飲み込む。また津波は何波も繰り返して襲う。この情景が、山幸彦が海神からもらった塩盈玉で海幸彦を潮に溺れさせ、塩乾玉で潮を引かせて海幸彦を助けるとする物語のもとになったのであろう。そこに兄弟の宗家争いが加味されたといえる。『記』では兄弟喧嘩に負けた海幸彦は山幸彦を護る守護人となり、俳優と成る。『記』は割注で海幸彦を「阿多の隼人の祖」としている。なぜそのような割注が付けられたのか? 答えは後述するとともに、天武天皇の章で詳述する。