豊玉姫と玉依姫の正体

   私は、山幸彦(彦火火出見 火遠理)が出かけた海神宮は奴国の国王の王宮を比喩的に表現していると判断した。そして豊玉姫および玉依姫を海人の氏族である安曇氏の女性であり、奴国国王の姫と考えた。それで、奴国比定地の博多湾に臨む地域の神社を調べた。その結果、豊玉姫については、姫島神社と志登神社が主祭神として豊玉姫を祀っていた。姫島神社は玄界灘にうかぶ糸島市志摩姫島にあり、姫の誕生の地との伝承が有る。もう一つの志登神社は糸島市志登にあり和多津見神らともに祀られている(残念なことに社殿が平成二十六年7月15日に放火のため全焼した)。現在の共通認識としては、糸島市は古代の伊都国の比定地であり奴国比定地ではない。しかし、「志登神社のある志摩地区は、古代、糸島水道によって分離しており、島であった。古代は、志登神社を海より参拝していた」とのことである。和多津見神は安曇氏の神であり、古代では糸島が奴国に所属し、陸側が古代伊都国の領域であったとも考えられる。また、「海神宮から帰った山幸彦を豊玉姫が追って、上陸したのがこの地であった」との伝承もある。糸島は古代、奴国に所属していたとみたい。もう一人の玉依姫(磐余彦の母親)については、奴国比定地に含まれる志賀海神社(福岡県福岡市東区志賀島)に祀られている。本殿の左殿に仲津綿津見神、中殿に底津綿津見神、右殿に表津綿津見神が祀られる。左殿には併せて神功皇后を、中殿には併せて玉依姫命を、右殿には併せて応神天皇をそれぞれ祀っている。志賀海神社は代々阿曇氏が祭祀を司ってきている。玉依姫は阿曇氏本流の姫と判断できる。

   『記紀』では、臨月に成った豊玉姫は妹の玉依姫とともに山幸彦の宮殿に来て、浜辺に造られた産屋で八尋和邇の姿に成って出産する。その姿を山幸彦に見られた姫はそれを恥て、我が子を残し、児と山幸彦にたっぷりの未練を残して海神宮に帰って行く。しかも、海神宮への交通を閉ざして。残された児は鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)と名付けられ、玉依姫が育てる事になる。この鵜葺草葺不合は、叔母の玉依姫と結婚して五瀬や磐余彦等をなすことになっているが、不思議なことに事蹟を全く持たないのである。また、磐余彦(後の神武天皇)は山幸彦と同じ彦火火出見という諱(本名)をもつ。このように見ていくと、鵜葺草葺不合は磐余彦の父としては架空であるとすべきであると思われる。つまり、鵜葺草葺不合は長じて五瀬と名乗ったと見る方が合理的である。後の東征でも、当初、東征軍の指揮をとっていたのは五瀬の様にみえる。したがって、磐余彦は、山幸彦と玉依姫の子であり、父の山幸彦の本名である彦火火出見を受け継いだとみることができる。五瀬と磐余彦は異母兄弟とみなせる。豊玉姫は、誕生の地が志摩姫島であることから、奴国王の庶子とみることができる。それ故、鵜葺草葺不合を出産後、日向の高千穂宮に留まることが許されず、愛する山幸彦と我が子を高千穂宮に残して、奴国に還ったとしたい。しかも、往来も許されなかった。そして、奴国王の宗女の玉依姫が、山幸彦の正式な妻として娶られ、磐余彦、御毛沼、稲氷を産んだ。豊玉姫と山幸彦の悲恋物語の脚色および贈答歌は、高千穂宮の猿女君の作になるものと、私は考えたい。