猿田彦大神の正体

   それでは、猿田彦とはだれであるのか? それは、57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」の金印をもらった倭奴国の国王の子孫であったとしたい。伊都国と覇権を争って敗れ、金印を志賀島に秘匿した倭奴国王と高官達は、そこを離れ、その後、日向灘に面した吾田(延岡平野)に逃れて暮らしていたのだ。国王の御子達は阿蘇山麓の邑で、伊都国出身の卑弥呼と奴国の分国の狗奴国とが、倭国の覇権を争う戦闘状態を案じていた。そして、争いをやめさせるため、狗奴国の移住を図っていたのだ。猿田彦は旧倭奴国王の裔の一人であったのだ。それ故、猿田彦は邇邇藝一行を吾田へと導いたのである。『記』では、邇邇藝一行を吾田へと導いた猿田彦を「此立御前所仕奉、猨田毘古大神者、專所顯申之汝、送奉。亦其神御名者、汝負仕奉。」と、邇邇藝は天宇受賣に向かって命じている。邇邇藝は猿田彦を「大神」と呼んで敬い、「其神御名」と敬語を使っている。なぜか? 邇邇藝は、「旧倭奴国の国王の後裔」であるという猿田彦の正体を知ったからなのだ。それで、敬った。

   また、さらに、吾田(阿多)で出会うことになる事勝國勝長狭(=塩椎神、塩土老翁)、大山津見とその娘の木花開耶姫も旧倭奴国王や高官の裔孫であったのだ。後に、塩椎神は青島を望む日向灘で山幸彦(火遠理、彦火火出見)を綿津見神の宮に行かせるが、海神宮こそ狗奴国本貫の奴国だったのである。それ故、綿津見も「綿津見大神」となっており、綿津見を奴国の王として敬っているのである。その後、塩土老翁(しおつちのおぢ)は磐余彦に「東の青山四周の美き地と(邪馬台国の)饒速日の東遷」を教え、これが磐余彦(後の神武天皇)の東征の契機となる。以上のことは後に詳述する。

 邇邇藝一行を吾田の笠沙御前に導いた猿田彦は、「伊勢の狭長田の五十鈴川上に到るべし」(『紀』)としている。『記紀』ともに、どこかに「還った」とはしていない。『記紀』の解説および色々な書物は、猿田彦を三重県伊勢市の五十鈴川川上の狭長田の神とし、一志郡阿坂村(現松阪市松ヶ崎)で溺れ死んだと解説する。確かに現在、伊勢市には猿田彦と天鈿女を祀る猿田彦神社と佐瑠女神社があり、鈴鹿市にも猿田彦と天鈿女を祀る椿大神社があり、松阪市に阿射加(あざか)神社がある。猿田彦は天鈿女を伴って伊勢国に還った様にみえる。
   しかし、よく考えてみよう。この時代、九州島から本州島の伊勢までどのようにして到れるといえるのか? いかに神話といえ、「ドラえもんのどこでもドア」でもない限り移動は不可能である。詳細は、神武東征段で述べるが、延岡市の五ヶ瀬川河口の笠沙御前(現在の名が愛宕山、古名は笠沙山)から少し南に五十鈴川(東臼杵郡)があり、その南の細島の対面には伊勢ヶ浜(日向市)がある(図 5・6)。

 宮崎県の五十鈴川、伊勢ヶ浜、細島
図5. 宮崎県の五十鈴川、伊勢ヶ浜、細島
 宮崎県日向市の伊勢ヶ浜
図6. 宮崎県日向市の伊勢ヶ浜

『紀』が示す「伊勢之狭長田五十鈴川上」とは、東臼杵郡の五十鈴川なのである(現在、列島には五十鈴川は二本しかない)。細島は現在では陸続きになっているが、往時は名前通り、伊勢の海に浮かぶ嶋であったのであろう。五十鈴川から伊勢ヶ浜あたりの沖積平野が「伊勢の狭長田」(一書「狭名田」)であったのだ。この五十鈴川ならば、往時でも、笠沙御前から十分に徒歩で到れる距離にある。そして、「五十鈴川上」とは、「伊勢ヶ浜」であると私は判断する。川を遡る訳ではない。現代では西洋式に「北上、南下」とするが、往時は、南に向かって方向を見たので、「南に上る」が正しい。従って、「五十鈴川上」は「五十鈴川の南」と解するべきであるのだ。前述した様に、この伊勢の地が旧倭奴国王と高官達の裔孫の根拠地であったとしたい。猿田彦の名前も、「狭長田(さなだ)の男」(「狭名田」の男)、つまり「狭長田彦」(「狭名田彦」)がなまって「猿田彦」となったと、私は考える。

   以上述べた様に、猿田彦に関する『記紀』現代語訳の解説も、神社とその由緒も全てが、地理の誤解釈に基づく虚構であるのだ。「猿田彦は伊勢の原始太陽神であり、その縁で天照大神が伊勢に鎮座した」と解釈されているが、この通説も、猿田彦を伊勢神宮と関連づけるための「こじつけ」というべきである。松前健は『日本神話の新研究』で、「猿は元来太陽神とされたが、太陽神は稲田の神とも考えられ、猿田毘古と呼ばれたのであろう」と説くが、『記紀』では、太陽を迎えるのは長鳴き鳥(尾長鶏)である。その由緒で、伊勢神宮には多数の尾長鶏が飼育されている。もし猿が、猿田彦の名前の由来であるならば、猿田彦を祀る猿田彦神社や椿大神社で猿が敬われていてもおかしくはない。私事になるが、若いときは初詣に伊勢神宮を詣で、鈴鹿に転居してからは近くの椿大神社に詣でている。伊勢神宮に詣でた時には猿田彦神社にも詣でた。しかしながら、猿田彦神社にも椿大神社にも猿園はなく、また、猿に因むお守りもない。天狗の大面はあっても猿の面は無い。猿は全く敬われていないのだ。猿が、太陽が昇る夜明けに騒ぐのは、バリ島のヒンドウ寺院、タイ内陸の仏教寺院、アマゾン川流域のジャングルおよび高崎山の飼い馴らされたニホンザルなどである。松前健説は、猿田彦を太陽神と関連させるための「こじつけの捏造」というべきである。猿田彦は伊勢の原始太陽神ではあり得ないのだ。