祭器型銅矛・銅剣

   和辻哲郎がとなえた、「銅鐸文化圏」と「銅剣・銅矛文化圏」にでてくる「銅剣・銅矛文化圏」について考えてみよう。一部にあるような「銅鐸民族」と「銅剣・銅矛民族」との対立、「銅剣・銅矛民族」が「銅鐸民族」を征服したという説は成り立つのであろうか? 結論からいえば、ありえない。

   『魏志倭人伝』には、邪馬台国の武器として矛と鉄鏃があったことは記述されている。矛は鉄製と断っていないので銅矛であり、武器であって祭器ではない。魏は呉と戦闘状態にあり、倭国と呉の同盟を恐れ、倭国の武器のチェックは厳しかったはずである。武器としての銅剣、銅戈の記述は無い。もし、倭人が中広形銅矛や広形銅矛などを祭器として祭っていたならば、『魏志倭人伝』は倭人のかわった風習としてかならずとりあげていたはずである。しかし、無い。従って、中広形銅矛、広形銅矛、広形銅剣および広形銅戈の流行は『魏志倭人伝』が記す邪馬台国以後となる。これらの青銅製武器には刃が磨き出されていず、明らかに祭器として作られたと判断される。そして、銅鐸同様に居住圏から離れた所に埋納され、流行は終了しているのだ。

   まず中細形銅剣について考えてみよう。先述したように出雲を中心とする「中細形銅剣集団」は中細形銅剣を武器としており、祭器とする集団ではなかった。それに、大量の中細形銅剣を埋納した荒神谷では、その近くで銅鐸と中平形銅矛が一緒に出土しており、出雲には銅鐸祭祀集団と中平形銅矛祭祀集団もともに混在していたことになり、不合理である。荒神谷銅鐸のところでは述べなかったが、出雲に来た鋳造師は鳥栖安永田遺跡=「支惟国」の鋳造師と断定したのは、彼らが中平形銅矛も作っていたからである。安永田遺跡にその鋳型が出土している。荒神谷6口の外縁付鈕式袈裟襷文銅鐸も16口の中平形銅矛もともにこの鋳造師集団の作品といえる。また、すこし南の佐賀県三養基郡検見谷遺跡に一括埋納された銅矛は、12口中10口が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持っている。荒神谷遺跡から出土した16口の銅矛のうちの4口にも同じ処理が認められる(図2)。

 神庭荒神谷遺跡出土の中細銅剣と中広形銅矛
図2. 神庭荒神谷遺跡出土の中細銅剣と中広形銅矛
このことから、検見谷に埋納された銅矛も鳥栖=「支惟国」の鋳造師が作った事がわかる。安永田遺跡では、錫を入れた土器が検出されている(『戦後50年古代史発掘総まくり』)。大分県に木浦鉱山という錫鉱山がある事から、原料を国産で賄った青銅器や、錫の含有量の高い銀白色・硬質の青銅器(経年で、錫の酸化のため黒色に変色する)を作っていたと考えられる。支惟国の鋳造師と出雲で暮らす同郷者が、本貫地との連携の象徴として中平形銅矛を祭ったとしたい。福岡県春日市西方にも10口の中広形銅矛が埋納されていた。春日市は奴国の領域にあり、隣り合う支惟国と奴国との交流を物語っているのかもしれない。なお、長崎県対馬市大綱遺跡にも12口の中広形銅矛が埋納されていた。これは、対馬が半島や大陸にわたる重要な中継地であり、交易する人々が航海の安全を祈るために祭祀場に持ち込んだのであろう。

   広形銅矛はその形態から、中広形銅矛の次にくる祭器であるとするのが通説である。この通説にしたがうならば、「台与の邪馬台国」が出雲の領有に成功した後の時代に広形銅矛が流行したと言える。「台与の邪馬台国」では饒速日と物部の氏族(不弥国と比定)が本州島や四国島東部に東遷していく時代でもある。広形銅矛は九州の福岡県、大分県の国東半島から四国の愛媛県、高知県の土佐湾に面した平野部で埋納と出土が認められている。平形銅矛の工房は、鋳型の出土から、福岡県春日市須玖岡本遺跡と考えられる。また、同遺跡の大南遺跡から、銅戈の鋳型が検出されている。春日市はまさに奴国の領域であり、奴国は狗奴国の本貫地であると私は考えている。このような考えに立ってみると、福岡県では、「台与の邪馬台国」と私が考えている行橋市と京都郡および、物部氏の根拠地と比定されている遠賀川流域を取り囲むように広形銅矛の出土地が分布する。これは、これらの地域に奴国の権力者や民が移住し、「台与の邪馬台国」と邪馬台国と組んだ物部の氏族を牽制していたように見える。また、大分県の国東半島と臼杵市(坊主山遺跡)にかけて広形銅矛の出土地が多いのは、奴国の権力者や民が「台与の邪馬台国」の南進を牽制し、延岡市から宮崎平野に移住した狗奴国後裔(邇邇藝から神武)を護るためとも考えられる。景行天皇紀に臣として多臣の祖となる武諸木、国前の祖菟名手、直入の中臣などがこれらの地域の豪族として名が見られる。景行天皇は狗奴国系皇統と私は考えている。

   先に「台与の邪馬台国」および邪馬台国と組んだ物部の氏族は本州島と四国東部に東遷し領地を拡大させた。それにあわせて、奴国の権力者や民が豊予海峡を渡り愛媛県や高知県の高知平野に移住したのであろう。四国島の東部の徳島県や香川県は、「台与の邪馬台国」と物部の氏族に奪われていたからである。国力のあった奴国も、大陸から中古の青銅器を輸入し、大南遺跡で一貫して広形銅矛を鋳造し、移住していった奴国の安曇族の権力者や民に配布し、同郷の証としたのであろう。現在の愛媛県宇和島市や北宇和郡には、綿津見神社がある。また、高知県高知市には海津見神社がある。その名残であろう。
   広形銅戈も同じように考えてよいであろう。

   他方、広形銅矛・銅戈の出土は、狗奴国比定地の菊池地方および狗奴国移住後の延岡平野や宮崎平野からはないようである。まさに文化の違いがある。

   次に銅剣について検討してみよう。細形銅剣や中細形銅剣は武器であり、祭器とは言えない。出雲における中細形銅剣については、前述した通りである。他方、祭器としての平形銅剣はおもに瀬戸内海周囲の地域に分布域をもつ。平形銅剣は主に同地で生産されたらしい。私は再三、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」こそ「卑弥呼の鏡」であると主張してきた。岡山県倉敷児島由加瑜山出土の平形銅剣にも「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」と同じ雲雷文をもつものが見つかっている。また、香川県や高知県から出土した銅剣には、銅鐸同様に鹿などの動物、重弧文、鋸歯文、櫛歯文があらわされている(『銅鐸の美』)。これらの銅剣も銅鐸と同一の工房で作られたか、あるいは緊密な繋がりを持つ氏族の工房で作られたと考えられる。瀬戸内海周囲の地域(播磨や伊予など)は、大國主(=大穴牟遅)とも関係が深く、出雲国後裔が移住しており、武器ではない平形銅剣を飾って同郷の証としたと、私は想像する。その一つの証拠となるのが、広島市福田木の宗山出土品である(平田恵彦「広島市北部の史跡を巡る旅」Web)。この遺跡の岩座の下から邪視文銅鐸にあわせて二つに折曲がった中細形銅戈と峰部欠失の中細形銅剣が1口ずつ出土している。剣と戈は実戦で使ったように見える。また、尾道市大峰山からも中細形銅剣2口と銅戈1口が出土している。中細形銅剣は出雲平定のところで述べたように、出雲で作られた武器とみてよい。それが、中国山地を越えた安芸の地にも持ち込まれた意味は、出雲平定の戦闘をのがれた出雲の民がこの地にいたのではないかということである。また、広島市の両延神社では7口の平形銅剣が江戸時代に出土している。これらの事を考えあわせると祭器形銅剣の祭祀は出雲の民が行っていたとできるのではないか。東征中の神武が福田木の宗山にほど近い埃宮(安芸郡府中町)に立ち寄っている。出雲の民から、邪馬台国の軍隊の戦いぶりを聴取するためでもあったのであろうか。

   以上述べたように、「銅鐸文化」と「武器型祭器文化」との対立、あるいは「銅剣・銅矛民族」と「銅鐸民族」いう概念は成り立たないといえよう。なぜならば、銅鐸も祭器型銅剣・銅矛もともに北部九州の奴国や支惟国に起源を求める事ができるからである。