銅鐸の基本文様を考える

   銅鐸には、謎が多いと言われている。はたして、そうであろうか?

   銅鐸の文様をよく観察すると、以下のことに気づく。多くの銅鐸に「渦巻き文」があらわされている。その文様は鈕、鐸身、鰭の飾耳にも見られる。この「渦巻き文」と同じ文様を持つ鏡がある。それが、「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」つまり「天照大神=卑弥呼の鏡」である。「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」では「渦巻き文」は「雲雷文」と呼ばれている。銅鐸の渦巻き文は「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」の雲雷文を取り入れたものと判断できる。また多くの銅鐸にある「流水文」も同心円の雲雷文と圏線をデザイン化したものと解することができる。この「流水文」は往時の土器にも描かれている。銅鐸の図案を土器に借用したのであろう。また、鈕や鰭の飾耳の「重弧文」も雲雷文に祖形を求めることが出来る。当然、鋸歯文と綾杉文も鏡に求めることが出来る。綾杉文は、鏡では櫛歯文である。銅鐸の鰭や鈕を飾る「鋸歯文と櫛歯文を組み合わせた複合鋸歯文」は、既に後漢鏡の獣帯鏡に見ることが出来る。このように銅鐸を飾る文様は、「卑弥呼の鏡」=「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」と共通する(図3)。

銅鐸の文様:渦巻き文、綾杉文、鋸歯文
図3.  銅鐸の文様:渦巻き文、綾杉文、鋸歯文
これこそ、「卑弥呼の鏡」を祭る邪馬台国後裔が、銅鐸を「卑弥呼の銅鐸」に仕立てた証左といえよう。なお、銅鐸の渦巻き文と酷似の雲雷文を、戦国・秦鏡の「雲雷地文鏡」群に見ることができる。渦巻き文あるいは雲雷文は、鏡では古くから使用されている文様なのである。ただし、この戦国・秦鏡の発掘例は日本ではほとんど無いので (三雲南小路の王墓からの2面があるくらいであろうか)、この鏡群の地文が銅鐸に借用された可能性はないであろう。また、「綾杉文入り鋸歯文」を半島由来の多鈕細文鏡に求める説もある。「綾杉文入り鋸歯文」は連続する三角文全てが櫛歯文(綾杉文)で充たされているのが特徴である。この鏡は9面が検出されているが、そのうちの一面が福岡市吉武高木遺跡の木棺墓から見つかっている。この多鈕細文鏡では櫛歯文が三角形の底辺に平行である。佐賀県鳥栖市安永田遺跡から出土した外縁付鈕式銅鐸の鋳型片の鰭の鋸歯文は斜辺に平行な櫛歯文(綾杉文)で充たされている。福岡市吉武高木遺跡と佐賀県鳥栖市安永田遺跡とはかなり距離があり、時間軸も異なるようである。支惟国の鋳造師が奴国にあった多鈕細文鏡の文様を参考にした可能性はないといえよう。興味あることには、佐賀県鳥栖市安永田遺跡と福岡市赤穂の浦遺跡で出土した銅鐸鋳型が、ともに斜辺平行の櫛歯文(綾杉文)で充たされた鋸歯文がついた鰭をもつ『戦後50年古代史発掘総まくり』)。本州や四国で出土する銅鐸が無文鋸歯文と綾杉文で充たされた鋸歯文の複合鋸歯文を持つのとは異なる。支惟国と奴国の銅鐸鋳造師には交流があったようである。