卑弥呼の死と天照大神の岩屋戸隠れ

   『魏志倭人伝』は、卑弥呼の死を記すが、どのようにして死亡したのかは、書いていない。『魏志倭人伝』が記す史実をふまえ、『古事記』、『日本書紀』、忌部氏の記録である『古語拾遺』および物部氏の由緒を記す『先代旧事本紀』の記述から、卑弥呼の死を論考してみよう。  古天文学という学問分野がある。コンピュターを駆使して古代の天文を研究する学問である。古代天体の研究から、247年3月24日の夕刻と248年9月5日朝に皆既日食が西日本であいついで起こったことが解明されている。もし邪馬台国が奈良盆地にあれば、夕刻の日食は生駒・金剛山地に遮られて見ることは不可能である。また早朝の日食では笠置山地に遮られて食ピーク後の太陽を見ることになろう。大和の人々は皆既日食を認知できなかったことになる。私は、邪馬台国は九州島北部にあったと見なしているので、邪馬台国の人々は二回の皆既日食を体験したと判断する。この皆既日食と「天照大神の岩屋戸隠れ」および「卑弥呼以死」(『魏志倭人伝』)を関連させる事ができるであろうか?

   この時代、邪馬台国と狗奴国が激しい戦闘を繰り広げていた。その最中の247年3月24日の夕刻、皆既日食が起こり、太陽が真っ黒に燃えながら、九州島西方遥かの玄界灘に沈んでいった。これを見た邪馬台国連合の人々は、「年已長大」となった卑弥呼の霊力の衰えを覚えた。同様に狗奴国の卑弥弓呼も、卑弥呼の霊力の衰えを悟ったであろう。この皆既日食の後日、霊力の衰えを覚えた卑弥呼は、邪馬台国の鏡師に連弧文鏡(和名は内行花文鏡)を模した仿製鏡を作らせた。魏の皇帝の下賜した銅鏡は、華夏の誰を映したかも分からない。中古の鏡ではなく、真新しい鏡を作り祭って、霊力の復活を願ったのだ。

   内行花文鏡をよく観察すと八連弧に囲まれた内区は炎を出して燃え上がる太陽を表わしている様に見える(森浩一説)。「日の神=太陽神」を祭る「日巫女」・「日御子」・「日神子」にはふさわしい鏡である。後に、『記紀』や『先代旧事本紀』および『古語拾遺』が、この「内行花文」を「日像(ひのかたち)」とみなし、「日像の鏡」、「日の形の鏡」とか「日像鏡」と著したと考えることは理にかなっている(図6)。

内行花文鏡、左:銘帯内行花文鏡、
右:長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡
(元伊勢籠神社神宝 )
図6. 内行花文鏡、左:銘帯内行花文鏡、
右:長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡 (元伊勢籠神社神宝 )
ただし、これは日本人の感性である。華夏では、「連弧文」は一定間隔に紐で縛られて垂れ下がる天蓋(玉座などの天井から吊り下げられたカーテン)を表わすとされているようである。

   仿製鏡の最初の一面は、小型の銘帯内行花文鏡(図6左)を模した仿製の内行花文鏡であった(『記紀』および『先代旧事本紀』「天糠戸神が天の香山の銅を採って日の形の鏡を作った」、『古語拾遺』「思兼神の謀通りに石凝姥神に日像の鏡を鋳造させた。 初めに鋳造した鏡は少々意に合わなかった。これは紀伊國の日前神〔ひのくまのかみ〕である」)。

   卑弥呼は、占いや禁厭(まじない)もしたであろうが、農作業に重要な日の順行、豊作そして子孫繁栄を太陽神に祈っていたと、私は思う。当時は農耕社会であり、農業を営むためには人手が必要であり、子孫繁栄は最重要事項であった。そのため、魏の皇帝から賜った百枚の銅鏡から子孫繁栄を予祝する「長宜子孫」の銘を持つ「雲雷文連弧文鏡」(後漢後期に流行した)(図6右)を特に好んで宮殿に祭ったと、私は考える。それ故、次の仿製鏡の一面は長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡を模した大型の「八葉鈕座内行花文鏡」であった(『古語拾遺』「次に鋳造した鏡はその状態が 麗しかった。これは伊勢の大神である」)。大きな鏡であった故に「八咫鏡」とも呼ばれた。新鏡は卑弥呼の宮殿に特別に奉安され、卑弥呼は日の出とともに斎祭った。さらに、内行花文鏡を鋳造して鏡作りが上達した鏡師集団は、超大型「八葉鈕座内行花文鏡」(図7)を作る事ができるようになり、鋳造された鏡のうち四面が宮殿を飾った。仿製鏡では、外区の複雑な雲雷文を再現する技術がなかったため、「ぶんまわし」を使った同心円の文様に変えられた(四面の超大型鏡が、後に平原1号墓から破壊された状態で出土する)。

八葉鈕座内行花文鏡 (平原1号墓 出土)
図7. 八葉鈕座内行花文鏡
(平原1号墓 出土)

   霊力の衰えを悟った卑弥呼は魏に支援を求めた(「八年太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」)。軍を指揮する難升米には、魏王朝から、帯方郡を介して、皇帝の詔書や黄幢(軍旗)が送られ、また帯方郡からは塞曹掾史(武官)の張政が派遣されて檄(戦争作戦書)をとばすなどして、邪馬台国連合の戦闘を支援した(「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 爲檄告喩之」)。一方、狗奴国は、霊力の衰えた卑弥呼が率いる邪馬台国連合に攻勢をかけ、翌248年9月には派遣武官張政の檄のかいもなく、邪馬台国連合は打ち破られてしまった。この戦争の敗北に激怒した邪馬台国連合の人々は、敗北が霊力の衰えた卑弥呼の所為として、9月5日の未明に卑弥呼の宮殿を襲い、「日の神」に祈るため奉る新鏡を持つ卑弥呼を宮殿外に引き出して、誅殺した。新鏡は卑弥呼殺害の様子を映し、小疵は付いたが、破壊は免れた。その際、卑弥呼に仕える女官も殺害し、宮殿に飾ってあった多くの鏡も持ち出して破壊した。卑弥呼誅殺後、大きく欠けた日が昇り、そして天も地もが暗黒に包まれた。暗黒の中、人々は卑弥呼を殺害したことで日が欠けそして消えてしまったと畏れ慄いた。その時、宮殿に居た宗女の台与は女官とともに、卑弥呼の亡骸を宮殿内に移し、宮殿の扉を固く閉て閂をかけ、中にとじ籠って残りの鏡を護った(「高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった」『記』)。

   ようやく、太陽が復活して世界が日照に照らされた時、人々は安堵するとともに卑弥呼がまさに「日の神子」であったことを悟った。明るくなった宮殿外では、卑弥呼を殺害した武人が、自ら倭国の王になることを宣言した。当初は、多くの族長もそれを承認した。しかしながら、その男王を戴くことを否とする族長が現れ、王座を巡って武人同士の激しい争いが起こった(「更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千余人」『倭人伝』、「あらゆる神の声が夏の蠅のように満ちあふれ、あらゆる災いがことごとく起こった」『記』)。

   その後、張政の采配で邪馬台国連合の族長達の話し合いがもたれ、卑弥呼の宗女である台与(壱与、壹與ともする)が新女王として推挙された。しかし、卑弥呼の殺害を目撃した台与は、怯えてしまい、宮殿から出ようとしなかった。そこで張政と族長達は、台与を宮殿から招き出すことを謀った(「八百万の神々は、天の八湍河の河原に集まって、どのようなお祈りを奉るべきかを相談した。
高皇産霊尊の子の思兼神は思慮深く智にすぐれていた。深謀遠慮をめぐらせて、祭(=鎮魂祭、殯)をすることにした」『記紀』)。
   そこで、台与を招き出すため、卑弥呼の殯を催すことになった。卜をすると、吉と出た(「俗擧事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆」『倭人伝』)。そこで、殯が執り行われる事に成った(「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」『倭人伝』)。この時、鏡の前を飾る玉飾り、護るための武器も作られた(『記紀』・『古語拾遺』・『先代旧事本紀』「櫛明玉神が八坂瓊の五百筒の玉飾りを、石凝姥命が天の金山の銅を採って日矛を、天目一箇神が諸々の刀・斧および鉄鐸を作った」)。鉄鐸は日矛に飾りつけられた。また、『記紀』・『先代旧事本紀』は記す「常世の長鳴鳥を集めて、互いに長鳴きさせた。天香具山の男鹿の肩骨を抜き取り、天香具山の朱桜を取って骨を灼いて卜い、神意を伺った。天の香山の枝葉のよく茂った賢木を掘りとり、
賢木の上の枝には八咫鏡を掛け、中ほどの枝には八坂瓊の玉飾りを掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けた」。これで殯の準備が整った。そこで、「天鈿売命が天の香山の天蘿(かげ)を襷として掛け、天の香山の真坂樹を髪に纏い、天の香山の笹の葉を手草とし、手に鉄鐸をつけた日矛を持って、天岩屋戸の前に立ち、庭火を焚いて巧みに踊りをした。桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神憑りになったように喋り、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部まで押し下げると、高天原が鳴りとどろくばかりに八百万の神々がいっせいに笑った。天照大神は、祭の騒ぎをあやしまれて、岩戸をわずかに開いて、わけを問うた。天鈿売命が答えた。『あなた様よりも、素晴らしく尊い神がおいでになっているので、喜び笑っているのです』。
天太玉命と天児屋命が新鏡をそっと差し出して、天照大神に見せると、天照大神は少し細めに磐戸をあけて鏡を見た。
そのとき手力雄神は、その扉を引き開け、天照大神の御手をとって引き出させて言った。『復な還幸りましそ』」。
   あるいは『紀一書の三』は記す、「天の香山の真坂樹の上枝に石凝戸辺が作った八咫鏡を懸け、中枝には明玉が作った
八坂瓊の曲玉を懸け、下枝には木綿を懸け、太玉に持たせ、祝詞を言わせた。大神は『いまだかつて、このような麗しい事を聞いた事が無い』と言って、細めに磐戸をあけた。そのとき手力雄神は、その扉を引きあけ、天照大神の御手をとって引き出させた」。宮殿の扉の前で行われた祝詞の内容は、「卑弥呼の新鏡が、小疵は付いたが無事であった」事を伝えたのであろう。それを聞いた台与は、喜び、扉を開けて鏡を見たとき、力持ちの男により宮殿から外に引き出されたのだ。
   台与は十三歳にして、邪馬台国の二代目の女王になった(「復立卑彌呼宗女壹与 年十三爲王 國中遂定」『倭人伝』、「天照大神が天の岩屋から出ために、高天原と葦原中国は、自然と日が照り明るくなった」『記紀』)。

   後日、卑弥呼の遺体は、生まれ故郷の伊都国に帰葬された。殺害された官女や狗奴国との戦争で戦死した者達とともに大きな冢に埋葬された(「卑弥呼以死 大作冢 径百餘歩 徇葬者奴婢百餘人・・・」『倭人伝』)。特に卑弥呼は、魏の少帝から下賜された太刀および使っていた玉飾りなどの装身具とともに棺に入れられて手厚く葬られたことは言うまでもない。また、ある者は破壊されて散乱した鏡片を集め、墓のそばに穴を掘って埋納した。そして、日食の日の出来事は邪馬台国の人々の間に強烈な印象となって深く記憶された。そして、卑弥呼を「日の神」に神格化した伝承が創作された。それが、天照大神神話である。卑弥呼は「死して神=天照大神になった」と理解すべきである。その霊代が仿製の「八葉鈕座内行花文鏡」であった。

   このように、『記紀』では、台与の新女王擁立が、天照大神の天岩屋戸からの再臨としてあらわされた。女王擁立当時十三歳であった台与は、張政を摂政として邪馬台国の経営にあった。天照大神の岩屋戸隠れの前は天照大神からの指示が多く記されるが、天岩屋戸隠れから再臨した天照大神は、高木神(=高御産巣日神)との共同指令が多くなる。「天照大御神、高木神二柱の神の命をもちて」である。これは、台与を天岩屋戸から再臨後の天照大神に、張政を高木神にそれぞれ神格化したものであり、この記述から、張政が台与の女王擁立から西晋に帰国する266年(泰始二年)までの約18年間、摂政として台与を補佐してきたことを物語っているといえる(「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還因詣臺」『倭人伝』)。

   『倭人伝』では、卑弥呼を巫女として見なしているため、子は無いとしている。しかし、『記紀』では天照大神を高天原の支配者としているので、素戔嗚と誓約(うけい)により五男三女を得た事になっている。従って、『記紀』を考慮すれば、台与には同族の義兄姉が八人いたことになる。天照大神の長男の忍穂耳(おしほみみ)が栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶って、饒速日(にぎはやひ)をなしている。台与が栲幡千千姫に神格化され、摂政の張政が、父の高木神に神格化されたとしても不合理ではない。

   以上述べた様に、『記紀』の「天照大神神話」は、『倭人伝』の内容とよくあう。では、誰が卑弥呼と台与の活動を「天照大神神話」に仕立てて伝承したのか? それは、邪馬台国に居た猿女君であったのだ。天鈿女が「神憑りになったように喋った」のは、殯における卑弥呼の一代記を述べた誄(しのびごと)あったのだ。この卑弥呼の一代記が、「天照大神神話」に脚色され、猿女君が誦して伝承することになる。

* 247年3月24日の日食は、魏の洛陽でも観察されたようで、皆既に近い深い日食があったことが、『三國志』巻四魏書四「三少帝紀」に記録(「正始八年春二月朔 日有蝕之」)されている(相馬 充、上田暁俊、谷川清隆、安本美典「247年3月24日の日食について」所収)。

** 平原1号墓からは、後漢鏡の「長宜子孫銘雲雷文連弧文鏡」1面と「四螭文鏡」1面、超大型仿製「八葉鈕座内行花文鏡」4面、大型仿製「大宜子孫銘内行花文鏡」(直径約27cm)1面のほかに32面の「方格規矩四神鏡」が出土している。方格規矩四神鏡も仿製であると、鉛同位体比の研究から明らかにされている(新井宏「平原鏡から三角縁神獣鏡へ」 Web)。そのうち、9面の陶氏作鏡方格規矩四神鏡は「楽浪の鉛」を含むことが解析されており、楽浪郡で作製された鏡が倭国(伊都国)にもたらされたと、『魏志倭人伝』の記述(「郡使往來常所駐」)から想定できよう。その他の尚方作鏡方格規矩四神鏡は、倭国で作られた「踏み返し鏡」であろうか? 判定のため、これらの鏡の高精細の図版が見たいものである。「長宜子孫銘雲雷文連弧文鏡」は卑弥呼の鏡で、「八葉鈕座内行花文鏡」のモデルであろう。他方、大型内行花文鏡の「大宜子孫」銘は漢鏡には見られない銘文である。この鏡は、どのような人物が作製したのであろうか? いずれにしても、私は、この墓の主は卑弥呼であると考えている。