天孫饒速日命の天降り

   大國主の国譲りおよびその後の出雲平定が終わった。そこで、「台与の邪馬台国連合」の豪族や権力者が、葦原中国に東遷を開始する。

   饒速日(にぎはやひ)は、天火明(ほあかり)、天照国照彦天火明、または天照国照彦天火明櫛玉饒速日とも呼ばれ、天照大神の孫になる。饒速日を祖とする物部氏の伝承を著した『先代旧事本紀』では、葦原中国には饒速日が天降っている。何度も述べるが、私は、饒速日=火明は台与の子であるとみている。

   台与と張政が、出雲国の大國主と葦原中国の国譲りの交渉を重ねる事十余年で、葦原中国の統治権を奪うことに成功した。その後、266年に台与の邪馬台国も安定し、それを見届けた張政は西晋に帰国した。当時、台与は三十一、二歳であり、饒速日も十代になっていたであろう。そして本格的な饒速日の葦原中国への天降り、つまり、本州島と四国島への東遷を開始するのである。饒速日は、「台与の邪馬台国」にいた時、天道日女(あめのみちひめ)を妃として、天香語山 (あまのかごやま)をもうけていた。『先代旧事本紀』によれば、天磐船と呼ばれる大型の頑丈な船を造り、饒速日と御子の天香語山が乗り、そして三十二人の護衛、五人の補佐、五人の供領、二十五人の天物部の兵士そして船長と船子などを乗せた。また饒速日には、天照大神から、天孫の璽 (しるし) の天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)、いわゆる瑞宝十種である瀛都鏡 (おきつかがみ)、
辺都鏡 (へつかがみ)、
八握 (やつか) の剣、
生玉 (いくたま)、
死反 (まかるかえし) の玉、
足玉 (たるたま)、
道反 (ちかえし) の玉、
蛇の比礼 (ひれ)、
蜂の比礼、品物 (くさぐさのもの) の比礼が授けられた。蛇の比礼と蜂の比礼は大國主がもっていた物を召し上げていたのであろうか。玉の中の一つは大國主の霊代の八坂瓊であったであろう。天磐船は、河内国の河上の哮峯 (いかるがみね) に天降り、そこから一行は大倭国の鳥見の白庭山に遷った。饒速日は大和国から河内国に勢力を持つ長髓彦 (ながすねひこ) と主従関係を結び、長髓彦の妹の御炊屋姫 (みかしきやひめ) を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日は亡くなった。御炊屋姫が産んだ子が宇摩志麻治(うましまじ)である。饒速日の亡骸は、高天原に戻された。

   饒速日は河内国に入ったが、何の抵抗も無く土地の魁帥である長髓彦に迎え入れられ、河内国から大和国を支配したようにみえる。これは、出雲で大國主が本州島の領有を再臨後の天照大神=台与に譲ったことが本州島各地の先住民の魁帥に伝わっていたためであると、私は考える。大國主は、誅される前に「私が国を譲ると決めれば、誰もあえて刃向う者はありません」(『紀』)と言っていたからである。また『記』では「我が子の百八十人の神々は、必ずお仕えしますから、一人として仰せに背く神はありません」と言っている。「百八十人の神々」とは大國主が統治していた国々の魁帥の比喩であろう。大國主の国譲りの言葉は邪馬台国連合にむけたものであったのだ。後述するが、磐余彦(後の神武天皇)が東征した際、吉備国、紀伊国および大和国内で地元豪族の激しい抵抗を受けている。それは、磐余彦が邪馬台国出身ではなかったからである。この事実は、磐余彦が日向の狗奴国人であったとする私説を補強する。