経津主命と横刀布都神

   大國主と国譲りの交渉を行った経津主と武甕槌は武将であり鋭利な横刀を持っていた。そして、その横刀で、国譲りを承諾した大國主を誅殺したのである(斬殺あるいは斬首)。『記紀』等には具体的な誅殺の記述は無いが、「幽界に隠去れなむ」とあることから、敗者の誅殺は必然であったのだ。大國主には無念の死であったであろう。大國主を誅した横刀は「布都御魂 (佐士布都神)」とよばれ、複雑な経緯を経て奈良県天理市の石上神宮に物部氏の氏神として祭られることになる。この横刀は、大國主を誅した後、台与の邪馬台国にもどり、武甕槌を介して紀伊国の熊野村にいた高倉下(天香語山)に渡り、そこで、高倉下から磐余彦(後の神武天皇)に献上される。その後、大和国で磐余彦から忠誠を褒めて宇摩志麻治に下賜され、宇摩志麻治が神武天皇の宮に「大神」として祭ることになる(『先代旧事本紀』)。崇神天皇の代に、物部氏の伊香色雄(いかがしこお)の手によって、饒速日の神宝とともに御神体として石上神宮(石上坐布都御魂神社)に祭られ、今日に至っている。この横刀は、鍛鉄の鉄刀であり、倭製とも考えられるが、私はこの横刀の由緒から判断して、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された五尺刀2口のうちの鉄製素環頭太刀と考えている(他の1口は卑弥呼とともに冢に埋納された。平原一号墓)。この横刀の変遷の詳細は、神武天皇と崇神天皇の章で再記する。

   出雲国を大國主父子にかわり、新たに支配したのが天照大神の次男の天菩比=天穂日であった。『出雲国造神賀詞』(Web)では、記紀と異なり、天穂日は子の天夷鳥(あめのひなどり)と経津主とともに出雲を平定したとなっている。天穂日は国譲り交渉の際、大國主におもねるだけの人物ではなかったのだ。後裔として出雲梟帥(いずもたける)が崇神天皇の時代に、また、最強の角力力士の野見宿禰が垂仁天皇の時代に出る。そして、代々、出雲大社で大國主大神の祭祀を執り行う祭主となり、今に至っている北島氏と千家氏はその裔孫であるという(高円宮典子様と千家国麿氏が平成二十六年10月に結婚された。約1700年ぶりに卑弥呼の裔孫が結ばれたことになる)。邪馬台国出身の天穂日と天夷鳥の親子、その後裔は、代々、大國主大神を出雲大社に閉じ込め、二度と現世に現れない様に監視してきたとも言えるのだ。

   出雲国には、先述したように弥生後期の妻木晩田遺跡群あり、出雲・伯耆・因幡地方の人口が『倭人伝』の述べる五万余戸に達していたと考えても何ら支障ないほどの国勢とされている。そこには多数の集落があり、当然、邪馬台国から派遣された軍隊と戦う武器として多数の中細銅剣が鋳造されていた。銅剣の原材料は大陸から輸入した青銅製品の廃物と思われる。なぜなら大陸は既に鉄器の時代に移っていたからである。おそらく、帯方郡経由で公孫氏から輸入していたのであろう。また、和銅も原料になった可能性はある。記録では「国内で銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武二年)で、因幡国から銅鉱を朝廷に献じた」と伝えられている。大國主の時代、出雲国に含まれる因幡では、既に天然銅が採取されていたと見なしても不合理とは言い切れない。出雲では、これらの原材料を使って多数の銅剣が作られ、邪馬台国から派遣された経津主と武甕槌の軍隊と戦ったのだ。天穂日父子と経津主は、出雲国平定後、集落の武装解除のため、銅剣を取り上げ、荒神谷にまとめて埋めさせ、二度と使用できないようにした。それらが、昭和五十八年出土の荒神谷358本の銅剣である。また、銅剣の一部は、九州倭国の「支惟(きい)国」の鋳師を招いて銅鐸に鋳直させた。葦原中国で初めての銅鐸鋳造であった。このいきさつは後述する。