台与の邪馬台国

   邇邇藝に率いられた狗奴国人が、日向の延岡から宮崎平野にかけて移住し、世代を重ねていたとき、台与を女王に戴く邪馬台国連合はどのようであったのか? 『記紀』には記述はないので、華夏王朝の史書を参照して論考してみよう。

   魏の遣使団の邪馬台国訪問は、240年であり、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国および邪馬台国を視察し、各国の国勢や習俗を記録した。その後、243年の卑弥呼の二回目の遣使とともに帰国したと思われる。248年の卑弥呼の死を目撃したのは、247年に帯方郡から派遣された張政であった。私は、『魏志倭人伝』に卑弥呼の死の状況の明確な記述がないのは、帯方郡から邪馬台国に派遣された武官張政が「卑弥呼の死」のいきさつを帯方郡中央に報告しなかったためと考える。いや、出来なかったためと考える。つまり、邪馬台国と狗奴国との大戦に際して、魏の王朝は、親魏倭王とした邪馬台国の卑弥呼の応援のため、帯方郡を介して魏の皇帝の詔書や黄幢を難升米に託した。張政も戦勝の檄を作り、邪馬台国を応援した。しかし、それでも邪馬台国は狗奴国に敗北した。この結果をつまびらかに報告すれば、魏の皇帝の権威と面目は丸つぶれになる。また、張政の武官としての経歴に傷が付く。さらに、親魏倭王の卑弥呼は皆既日食の朝、邪馬台国の国民の手にかかり殺された。こうした内容を張政は帯方郡あるいは西晋の王朝に報告するのを憚った。それ故に、著者陳寿は、卑弥呼の死のいきさつを『魏志倭人伝』に記すことができず、「卑弥呼以死」とだけ記したのである。

   248年の卑弥呼の死後、新女王となった台与は卑弥呼の血で穢された地を離れ、邪馬台国をより日の出に近い東方の地に遷都した。そこは卑弥呼の出身地である伊都国から東にある、周防灘に面した京都郡付近と、私は推測する。ここに「台与の邪馬台国」の都が置かれたから「京都(みやこ)」という名前がついたのであろう。京都郡が「台与の邪馬台国」の都であったという説は、安本美典氏をはじめ、多くの古代史研究家も採用している。私もこの説に従う。では、なぜ九州島北部の東端に台与は邪馬台国を遷都したのか? それは、倭国の国策をかけた狗奴国とのこれ以上の戦闘を回避する目的もあったかもしれないが、呉の侵略を回避するためであったと私は思う。邪馬台国連合と狗奴国との激しい戦闘で消耗した倭国は呉の格好の侵略の餌食になりえた。遷都は、張政の進言であったのだ(「政等以檄告喩壹與」)。台与は、遷都した邪馬台国で、張政を摂政として国を運営した。そして、魏、続いて晋(西晋)に朝貢して冊封体制を維持して国体を護り、かつ晋王朝の動静を探ったといえよう。

   姚思廉の『梁書』倭国伝(629年)は記す「復立卑彌呼宗女臺與爲王 其後復立男王 並受中國爵命」。また、杜佑の『通典』辺防第一・倭(801年)は記す「齊王正始中 卑彌呼死 立其宗女臺輿爲王 其後復立男王 並受中國爵命 晉武帝太始初 遣使重譯入貢」。そして、遡ると『晋書』倭人伝(648年)は記す「宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相、又數至。泰始初 遣使重譯入貢」。これらの記事は、卑弥呼の死後の宗女台与(臺與)の女王即位、更に男王の即位、そして266年(泰始二年)の西晋王朝への朝貢を伝えるものと理解できる。266年の時、台与はおおよそ三十一、二歳であろう、子がいても不思議ではない。そして、その子こそ饒速日(にぎはやひ)=火明(ほあかり 実名?)であり、台与の後を襲って「男王」となっていたことが窺える。また、晋の文帝(司馬昭)がまだ魏の宰相であった頃、饒速日=火明が魏への朝貢を幾度か行い、その際に台与と並んで中国の爵位をもらったと見ることが出来る。『梁書』倭国伝は「其後復立男王 並受中國爵命」の後に「晋安帝時 有倭王賛」と続けており、また、『通典』辺防第一・倭も、「宋武帝永初二年 倭王讃脩貢職」と続けている。「晋安帝時 有倭王賛」とは413年の倭王讃の朝貢を示しており、この記述から台与の後の「男王」は「讃」とは明らかに別人であることがわかる。「豊前に遷都した台与の邪馬台国では、火明=饒速日が台与の後を襲って王となり、魏へ朝貢して爵位を得た」と理解することは不合理ではない。そして、饒速日は、武帝(司馬炎)が魏の禅譲を受けて西晋を興すと(265年)、翌年に朝貢をして西晋の冊封体制に入ったのである。

   台与と張政は、さらに、九州島の邪馬台国連合の主要な豪族を、国土の広い本州島や四国島に東遷させようと画策したと私は考える。

   『豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、我が御子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が王となるべき国である』(『記』)と天照大神が言って、葦原中国の国盗りが計られる。実際の葦原中国の国盗りは、「台与の邪馬台国」の時代、台与(再臨後の天照大神)と摂政となった張政(高木神、『記』では高御産巣日神に神格化)が行った。その端緒が出雲国の平定であったのだ。少名毘古那とともに国づくりをして葦原中国の統率主となった大國主の本国であった。本州島や四国島に東遷して領土を広げるには、大國主にその統率権を譲渡させる必要があったのだ。