出雲平定の秘話 新羅王脱解

   この出雲国平定の時代、因幡関連で興味ある史実がある。それは、高麗王朝の正史『三国史記』と一然があらゆる文献を漁って編纂した『三国遺事』に物語られる「昔 脱解(そく たれ)」という倭人の賢者である。『三国史記』新羅本紀を参考に記述すると、西暦時代は確定できないが、海を渡ってきた脱解は新羅王室に入り二代南解王の長女と結婚し、大輔(軍事と政事を司る)に起用される。三代儒理王も補佐し、四代の新羅王に即位する。そして同じく海を渡ってやってきた倭人の瓠公(ここう)を大輔に起用して政治を行い、辰韓の小邑の一つ斯蘆国を新羅へと発展させたのである。斯蘆国は大陸の秦の棄民や逃民のため百済が領地の一部を割いて居住させた辰韓の12ある小邑の一つであった。脱解王と瓠公の倭人コンビが新羅を国へと発展させたのである。その後、脱解の昔氏の子孫は九〜十二代および十四代〜十六代の王に即く事になる。しかも、皆、聡明で、容姿端麗な名君であったという。つまり、新羅の基礎造りの後半の王は倭人の王の脱解の子孫(倭種)が占めたのである。  梁時代の『梁職貢図』(526~539年頃作成)に「斯羅國 本東夷辰韓之小國也 魏時曰新羅 宋時曰斯羅 其實一也 或屬韓或屬倭 國王不能自通使聘」(斯羅國は、元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった)「其俗與高麗相類 無文字 刻木為範 言語待百濟而後通焉」(習俗は高句麗と類似し文字はなく木を刻んで範とした。百済の通訳で会話を行った)とあるのは、「新羅の四代以降の王族は倭種であった」ことを裏付ける史料といえる。民は濊(小便で顔を洗う意)族=エペンギ族が占めていたのであろう。

   その脱解は、『三国史記』新羅本紀で「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」(脱解は、もとは多婆那国の生まれで、その国は倭国の北東一千里にある)と記されている。脱解の生国が多婆那国(たばなこく)であり、倭国から北東一千里とされている。しかし、『魏志倭人伝』に多婆那国あるいはそれに近い音を持つ国名は無い。正確な里数の算定は、私には難しいが、九州島北部から日本海側北東一千里であれば、この多婆那国を因幡国とすることが出来るのではないかと、私は考える。新羅は半島の東部を占めており、そこに渡海してきたという事は、半島南部海域を北上して日本海に至る対馬海流にのって船で来たといえる。日本海側の沿岸から対馬まで至れば、その海流にのることが出来る  先述の出雲平定の時に起こったと考えられる残忍な史実がある。『青谷の骨の物語』(井上貴央 鳥取市社会教育事業団 2009年 3月 Web)から内容を転載する。
   「鳥取県の日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から形成された村で、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる大虐殺があった。東側の溝から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している。死者の中に15~18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝が埋め立てられていた」。
   この地域は出雲の隣の伯耆に含まれる。時代は弥生後期後葉でまさに出雲平定の時代である。経津主と武甕槌は、帰順する者には褒美を与え、刃向かう者は惨殺した(『先代旧事本紀』)。また、『紀』では「邪神および草木石の類いを誅す」とあり、まさに皆殺しである。出雲の国人の殺戮が伯耆で行われ、隣接の因幡でも行われたであろう。その因幡の有力者が、邪馬台国の軍隊による殺戮を避けるため、我が子を櫃(ひつ)に入れて船に乗せ、財宝と従者を添えて、半島に向け逃したとしたい。船が、阿珍浦の浜で海女に拾われ、中の児が脱解(箱からでてきたの意)と名付けられて養育された。長じた脱解は聡明であり、持参した財宝をもって新羅王室に入り、二代南解王の長女と結婚し、六十二歳で四代目の新羅王になった、と私は考える。辰韓の小邑の新羅が版図を広げていくのが三世紀末から四世紀初であり、新羅の統一が356年であるから、出雲平定の戦いが行われたと推察される260〜270年頃、脱解が因幡から逃れたとしても、時間軸は合う。『三国史記』新羅本紀が記す年代は、『紀』と同様に過去に大きくずらされていることは自明であり、訂正することは妥当である。
   『魏志倭人伝』に記された大国の投馬国には因幡地方が含まれるので、『魏志倭人伝』に脱解の故郷の多婆那国の紹介がなくても納得できる。

   他方、多婆那国を、新羅の王子の天之日矛(あめのひほこ)が訪れて定着した但馬国という説や丹波国とする説も有る。多婆那国を但馬国とすれば、何代目の倭種の王の王子かわからないが、天之日矛は遠祖の国に里帰りしたことになる。また、『播磨國風土記』では渡来神の天日槍命として登場し、葦原志挙乎命と領土の奪い合いを行っている。争いの顛末では、双方が三本の黒葛を投げる占いを行い、葦原志挙乎命の葛は播磨に一本・但馬に二本、天日槍命の葛は全て但馬に落ち、天日槍命が但馬出石に住む事になる。いいかえれば、天日槍はもともと但馬の出身ではないことを表わしているともいえる。つまり、「昔脱解」と天之日矛とは何ら関係ないといえよう。天之日矛については、垂仁天皇記で論考する。

   なお、蛇足になるが、日本や韓国の研究者のなかには多婆那国を熊本県の玉名市付近と断じ、そこは新羅の倭国内植民地であったと主張している。玉名市付近は狗奴国の版図であり、新羅とは関係ない。この説はまさにファンタジーである。