神武東征
(2)吉備から河内の孔舎衛坂へ

   神武の舟軍は、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしている。『紀』では安芸国でほぼ一ヶ月、吉備国の高島宮で3年すごし、ここでまた、軍舟、武器、兵糧を蓄え、戌午(つちのえうま)の二月十一日、神武は東に向かい出航している。高島宮の所在地は、以下に記すように諸説有る。つまり、沼隈郡説(広島県福山市の八幡神社)、高島説(岡山県笠岡市高島、良港がある)、宮浦説(岡山市南区宮浦高島、旧児島郡甲浦村大字宮浦字高島、旭川河口近くの小島であり、長期滞在には不都合)、そして高島山説(岡山市中区、島であった形跡はない)がある。いずれにしても、瀬戸内海に浮かぶ小島が高島宮の所在地に比定されている。神武軍は陸上に拠点をおくことが出来なかったようである。吉備国にあたる岡山県岡山市には多数の三角縁神獣鏡とともに「長生宜子銘内行花文鏡」を埋納していた湯迫車塚古墳があった。この鏡も後漢鏡で内区に「長宜子孫」のかわりに、同じ意味の「長生宜子」を鋳だしている。「長宜子孫銘内行花文鏡」と類似の鏡である。吉井川、旭川および高粱川がつくる岡山平野には5口の銅鐸と銅鐸の破砕片が出土している。これらの証拠から、岡山平野は邪馬台国の権力者か物部の氏族がすでに先住の民を支配しており、吉備王国といえるような勢力が出来上がっていたとしたい。そのため狗奴国人である神武の軍舟を平野部に寄せ付けないように抵抗したと考えられる。しかも、吉備の先住民はすでに高度な文化を持っていた。それが、瀬戸内海航路の支配であり、製塩技術であった。古代の製塩法は、土器に濃い海水を入れ、煮沸して結晶塩を得る土器製塩であり、吉備地方は塩の一大生産地(師楽遺跡など)であった。「青い山々が四方を囲む東方の美しい国」(『紀』)をめざす神武にとって、塩の供給地を獲得する事は必須であった。神武は時間をかけて地元の権力者と交渉したのであろう。吉備には砂鉄を利用した製鉄もあるが、弥生後期に製鉄があったどうかはわかっていない。神武は外交交渉を巧みにして、舟の修理と兵糧を獲得し、戌午年(298年)二月十一日に吉備を出航したと考えたい。それにしても、神武が軍団を養うには小島での3年あるいは8年の滞在はいかにしても長過ぎる。

   後の話になるが、大和王権の景行天皇、倭建、応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇はそれぞれ吉備出身の女性を妃としている。大王家は吉備一族を政治的同盟あるいは人質を取る対象として、対応に腐心していた事が窺える。吉備王国は製塩、製陶および製鉄で、大和王権に対して優位な立場にあったと言えよう。

   吉備を出発した神武の舟軍は、浪速の岬を通って河内の国の草香邑(くさかむら、東大阪市日下)の白肩の津に着いた。そこには長髓彦(ながすねひこ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、長兄の五瀬が長髓彦の放った矢に当たるなどして敗退した。五瀬は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬は紀伊国の男之水門に着いたところで亡くなった。

   神武東征時の古代の浪速岬から河内国草香邑白肩津に至るルートの解析は、多くの古代史研究者によりなされているので、本文では略記する。現在の大阪湾は、古代には河内湖(初期は海水の潟で、後に淡水の湖となる)と呼ばれ、淀川、大和川がこの湖に流れ込んでいた(図4)。

弥生後期の河内湖
図4. 弥生後期の河内湖
したがって、草香に上陸した神武軍は、はじめ生駒山地の南につながる信貴山南麓あたりの竜田越えで、奈良盆地への侵攻を試みる。しかし、道が険しく断念する。次に生駒山の北を越えて侵攻しようとするが、孔舎衛坂(くさゑのさか、東大阪市日下)で長髓彦と戦闘になりに敗れるのだ。

   この『紀』の記述は弥生後期の地理を勘案すれば妥当であり、神武東征は実際にあったと見なされている。長髓彦が神武軍を侵略者と見なして戦いを挑んだのは、大國主から葦原中国の国譲りの伝達を受けて、先に到達した饒速日こそが新しい主君であると固く信じたからであろう。