神武東征
(4)紀ノ川を遡って宇陀へ

   その後、神武軍は高倉下が紹介した、熊野(いや)の地理に詳しい八咫烏の道案内により多くの荒ぶる神を避け、紀ノ川を遡ることになる。多くの荒ぶる神は先住民の権力者および先に移住してきて土地の支配者となった邪馬台国の権力者を指すのであろう。紀伊半島の和歌山市、有田市、御坊市、田部市の沖積平野では合計42口の銅鐸が出土している。御坊市の堅田遺跡からは鋳型と青銅を溶かした溶炉遺構が発見されている。また、海南市下津町には御祭神を少毘古那彦神とする粟島神社がある。これは、少彦名命が熊野の岬の粟島から常世に行ったとする『紀』の記述がこの神社の由来となっているようにみえる。「熊野の岬」は出雲にあるとする通説とは異なるが、出雲との交流を物語るようでもあり、出雲から銅鐸技術者が来ていたかもしれない。このように紀伊半島西部の熊野(いや)には邪馬台国の後裔が広く移住し、銅鐸を祭っていた事が窺える。

   八咫烏の道案内で、神武軍は荒ぶる神との戦闘を避けながら、まず紀ノ川上流の吉野河川尻に到る。奈良県では吉野川と呼ばれ、五條市あたりで和歌山県に入って紀ノ川となるので、紀ノ川上流は吉野河川尻になる。そこで贄持之子(にえもつのこ)に会う。紀ノ川にはアユが遡上するのでアユ漁ができる。当時は鵜養漁もあったのであろう。五條市あたりからさらに吉野川を遡り、吉野で水銀採取をする井氷鹿(いひか)や猟師の石押分之子(いわおしわくのこ)に会う。吉野川が南に折れる当たりから北上し、現在の伊勢本街道(370号線)あたりの山中を踏み分けて宇陀に到ったのであろう。『記』の道程をたどれば、紀ノ川河口から宇陀に到ることが出来る。従って「神武東征記」は史実を述べているといえるのだ。

   追記すると、弘法大師空海が吉野の高野山を醍醐天皇に求めたのは、そこが中央構造線上にあり、地下から水銀鉱が採取できるからと言われている。水銀は金の精製に必要であり、鍍金に必須である。また、鏡を磨いて白銀色に仕上げるにも必須である。奈良県には水銀鉱山が多くあった。同じ中央構造線上にある三重県松阪市飯南町に私の友人が住んでおり、彼の家の井戸の内壁からたくさんの水銀鉱の結晶を採取した記憶がある。結晶は太陽の光で見ると水晶のごとく輝いた。「その井に光ありき」とは、井氷鹿は洞穴に入って水銀鉱の結晶を採っていたのだ。

   そして紀伊半島の中央構造線の東端には伊勢神宮が、西端には日前宮が位置するのである。大和の国から見て、日の出と日没の象徴的な位置にあることになる、両神宮は、ともに垂仁二十六年と十六年に天照大神が鎮座している。垂仁期に、既に紀伊半島の中央構造線が解明されていたのであろうか? それとも偶然の立地であったのであろうか?