神武王権

   神武東征の最終盤、台与の孫の宇摩志麻治は、叔父の長髄彦を誅して、神武に帰順した。その時、神武は、高千穂宮で祖父の瓊瓊杵から聞かされていた卑弥呼の霊代である鏡(八葉鈕座内行花文鏡、遠岐斯鏡=瀛都鏡)と「親魏倭王」の金印を、宇摩志麻治に献上するように要望した。玄祖父の卑弥弓呼の妻であり、皆既日食の朝に邪馬台国の武人により誅殺された卑弥呼の霊を祀るように言聞かされていたからである。宇摩志麻治は、台与が饒速日に授けた十種天璽瑞宝と出雲平定に活躍した布都主(あるいは武甕槌)の使った布都主剣も神武に献上した。先述したが、十種天璽瑞宝には瀛都鏡・八握剣および玉がある。邪馬台国のあった九州島北部の王墓で行われていた甕棺に鏡・剣・玉を副葬したのは、鏡・剣・玉が王権の象徴であった事を示すと言われている。宇摩志麻治が、大和国の統治権を掌握した狗奴国人の神武に鏡・剣・玉を献上したのは、まさに邪馬台国が神武の王権を承認する行為であると言える。それ故に神武天皇は、喜び、宇摩志麻治を大いに寵愛したのだ。「天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。『殿内の近くに侍りなさい』 (近く殿の内に宿せよ)
そのためこれを足尼 (すくね) と名づけた。足尼という号は、ここから始まった」(『先代旧事本紀』)。したがって、『記紀』が表す「邇邇藝の三種の神器」譚は、邪馬台国の台与の孫の宇摩志麻治が、大王(天皇)に即位した神武に鏡・剣・玉を献上したことのコピーとする方が理にかなっている。私は、卑弥呼が魏の皇帝から賜った「親魏倭王」の金印も台与から饒速日、宇摩志麻治に伝えられ、宇摩志麻治から神武天皇に召し上げられたと、密かに思っている。宇摩志麻治に対する天皇の寵愛が破格すぎるからである。「親魏倭王」の金印は、おそらく「漢委奴国王」の金印同様に蛇鈕をもっていたであろう。では金印のその後の行方はどうなったのか? 今後記してゆきたい。

   神武王権の最重鎮となった宇摩志麻治は邪馬台国の後裔である。神武王権の樹立により、邪馬台国の縁のものは、狗奴国本貫の神武王権に仕えることになってしまった。狗奴国と邪馬台国との相剋では、邪馬台国がまたしても地にまみれたのである。しかしながら、神武の王権は、最大限、大和、河内、紀伊および阿波の国々を版図にするものであった。本州島と四国島の多くの国々は、邪馬台国や不弥国物部の後裔の権力者の支配下にあったが、頭領の宇摩志麻治が神武王権に恭順したことを受けて、それに準じただけであった。こののち、宇摩志麻治は足尼の地位を利用して崇神(=神武)天皇に反撃を挑んで行くのである。

*私は、神武天皇から九代の開化天皇までは架空であり、十代の崇神天皇から実在した天皇であって、神武天皇の事蹟は崇神天皇のものであると考えている。