神武天皇即位と
三種の神器

   不思議な事に『記紀』には初代天皇になる神武天皇の即位式の記述はない。東征を始めて6年の歳月、多大の労力および軍事力をつぎ込んで手にした王座でありながら、晴れがましい即位の儀式の紹介が無いのだ。邇邇藝から伝承したはずの、天照大神から授かった八尺勾璁、鏡および草那藝劒(いわゆる三種の神器)がどのように宮殿に奉祭されたかの紹介もない。

   三種の神器の由緒は、『記』の邇邇藝の天孫降臨譚にはある。それでは、『紀』が記す、「天孫降臨」譚を見てみよう。『紀』の本文では、「葦原中国平定後、高皇産霊尊は真床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた」とするだけで、「三種の神器」は無い。
   一書(一)に、「天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉・八咫鏡及び草薙剣の三種宝物(みくさのたから)を賜う」とある。おそらくこの一書(一)は『古事記』であろう。
   一書(二)には、「天照大神は手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、天忍穂耳尊に授けて、『我が御子よ、宝鏡を視ること、まさに猶(なお)我を視るが如くすべし。與(とも)に床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ』と祝福した」とある。そして、天降る途中で瓊瓊杵が生まれたため、瓊瓊杵を天降りさせ、天忍穂耳は戻っている。
   一書(四)では、「高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天忍日命(あまのおしひ)が、天津久米を率い、背には天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を着け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢を持たせて付き添わせている」。ここで、天つ瑞の天羽羽矢と靫が出てくる。
   さらに、一書(六)では、「天忍穂根尊(あまのおしほね)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫を娶って生みし子は天火明命(あまのほのあかり)、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山(あまのかぐやま)が尾張連等の遠祖である」とし、天火明と瓊瓊杵が兄弟である事を示す。また、天火明の子に天香語山がある事をしめす。

   『紀』の本文に従えば、瓊瓊杵は真床追衾だけで天降ったことになり、天つ瑞は真床追衾になる。したがって、神武には天の瑞宝は無かったとも言える。または、一書(四)では、瓊瓊杵の天つ瑞は、真床追衾と天羽羽矢および靫である。長髄彦との戦の時、神武が示した天羽羽矢と靫は、これが継承されたことになる。天梔弓と天羽羽矢は鹿を射る弓矢のことである。北部九州の邪馬台国連合も狗奴国もともに同じ型の矢を使っていたが、葦原中国で使われていた矢とは異なっていたのであろう。例えば、「北部九州の矢には鉄鏃が付くが、葦原中国の矢には石鏃か銅鏃が付いていた」というように。それで、登美の豪族の長髄彦は、天羽羽矢を見て、神武も饒速日と同じ矢を持つ事から、北部九州から来た貴人(天孫)と理解したのだろう。このように『紀』は三種の神器を重要視していない。『紀』の記述に従えば、瓊瓊杵の裔孫になる神武が王統の璽(しるし)の三種の神器を持っていなくても当然と言える。私が主張する様に、「瓊瓊杵が狗奴国人であり、神武天皇が狗奴国本貫」でああれば、瓊瓊杵が台与(=天照大神)から、「遠岐斯」鏡・玉、及び剣を授からなかったことは、当然である。そして、それは『紀』の記述通りになるのだ。初代の神武天皇は皇位の璽の「三種の神器」を持ってする即位の礼は、行われなかったのだ。

   他方、朝廷の祭祀を司る氏族だった忌部氏の報告書たる『古語拾遺』には神武天皇の即位の礼が記述されている。また、物部氏の伝承を記す『先代旧事本紀』にも記されている。両書はほぼ同じ内容を伝えており、『先代旧事本紀』でみてみよう。
   辛酉年の一月一日に、神武は橿原宮ではじめて皇位に即いた。この年が、神武天皇の治世元年となる(後の西暦で2月11日の建国の日)。媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめ) を皇后とした。  天皇即位式の時、宇摩志麻治命は天の瑞宝をたてまつり、神盾をたてて斎き祀った。また、斎木を立て、五十櫛を布都主剣 (ふつぬしのつるぎ) のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った。
そして十種の瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼 (すくね) といわれた。
   天富命は諸々の忌部を率いて天つ瑞の鏡と剣を捧げ、共に瓊玉を懸けて正安殿に安置した。
天種子命 (あまのたねこ、中臣氏の祖) は、天神の寿詞 (よごと) を奏上した。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾をたてて威厳を正した。
道臣命(大伴氏の祖)は来目部を率いて、宮門の護衛し、その開閉を掌った。
それから(あとの即位の礼)、四方の国々に天皇の位の尊貴さを伝え、天下の民を従わせることで朝廷が重要であると示した。このとき諸皇子と大夫は、郡官・臣・連・伴造・国造らを率いて、年のはじめの朝拝をした。
現在(『先代旧事本紀』が編纂された時代)まで続く、即位・賀正・建都・践祚などの儀式は、皆このときに起こった。

   宮殿では、鏡・剣・瓊玉は、忌部氏により正安殿に安置されている。また、宇摩志麻治が率いる物部氏は、布都主剣を氏神としているため、大神(布都御魂大神)も宮殿の内に崇め祀られたことになっている。しかしながら、『記紀』に神武天皇の即位の礼の記述がない事と、『先代旧事本紀』と『古語拾遺』の編纂年が九世紀初頭とされている事を考え合わせると、当時の践祚の礼を下敷きにして、神武天皇の即位式が創作されたと考える方が合理的である。この時(平安時代初期)には三種の神器を奉った践祚が慣例になっていたといえる。