神武東征
(7)大和での戦い:神武歌謡の伊勢の海と生石

   神武軍は進んで、忍坂の大室で、原住民の土雲八十梟帥(八十人の武人)を、軍略をめぐらして討ち滅ぼす。更に進んで、奈良盆地の登美に入り、兄五瀬を殺した宿敵の長髄彦(登美毘古)との決戦にのぞむ。国見丘に布陣する多数の敵兵を見て、神武が謡う、
   「神風の 伊勢の海の 生石に 這ひもとほろふ 細螺の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ」「加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟」。

   長髄彦との決戦の時の謡である。私は、この神武歌謡を「国見丘に布陣する長髄彦の軍勢など、岩の上を這い回る細螺(しただみ)のようなもの、撃ち果たしてしまおう」と、軍団を鼓舞する謡と理解する。軍歌の「♫♫敵は幾万ありとても・・・・撃ちてし止まん ♫ ♫」である。  この歌に「伊勢の海」がでてくる。従来の解釈(直木孝次郎説)では、「神風を伊勢の枕詞とする。また伊勢を伊勢神宮と考えると、伊勢神宮が祭られるのは垂仁の時代で、神武の時代に伊勢神宮は存在しない。したがつてこの歌は後世の創作である」となっている。私は、この説は一理あるが、大間違いとみる。もちろん、この「伊勢」は三重県の伊勢市ではないのだ。私は毎年、伊勢神宮を参拝するが、伊勢神宮は陸奥にあり、「伊勢の海の神風」など、感じる事はない。枕詞といわれる「神風」は、伊勢津彦の起こした八風(『伊勢國風土記』逸文)でも、元寇の際、元と属国の高麗の軍船団を撃沈させた暴風でもない。私も三重に住まうが、毎年の暴風に際して神風が吹いたと誰も思わない。なによりも、天照大神が伊勢の五十鈴川沿いに鎮まる時、天照大神は「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ」(『紀』)といっている。天照大神は暴風の吹く伊勢を好んで鎮まりたいとは言っていないのだ。暴風を「神風」とする次田真幸の『記』の解説も間違いである。地理の誤解釈により、天降りした邇邇藝を、古代に存在しなかった「薩摩半島の笠沙岬」に向かわせ、阿多でインドネシアからの渡来人の隼人の女と通婚させ、神武をインドネシア人(8分の1日本人)に仕立ててしまう愚をおかす、恥ずかしい見解と同じにみえる。

   前述した鉾島神社の由緒にもあったように神武が鯨漁をした日向市には、鉾島神社と大御神社の間に伊勢ケ浜があるのだ(図9)。

宮崎県日向市の伊勢ヶ浜と大御神社
図9. 宮崎県日向市の伊勢ヶ浜と大御神社
「伊勢ケ浜」をこの歌にあてはめてみれば、よく理解できる。「神風の伊勢の海」とは「波穏やかな伊勢の海」と理解すべきである。「神風」は「伊勢ケ浜」から荒海の日向灘に出漁するのに良好な風のことなのだ。私事になるが在職中、1997〜2000年に起こった真珠貝(アコヤ貝)の大量斃死の研究に大分県佐伯市の真珠養殖漁場を幾度も訪問した。その時、宮崎空港から佐伯市まで日豊本線を使い、車窓から日向灘の様々な表情を目撃した。また、学生を連れて志摩市英虞湾の小島に臨海実習に行った。不幸にして台風が近づいて海が荒れた日には海岸の岩の上にはシタダミやタマキビなどの小さな巻貝は居ず、全て岩の割れ目や潮溜まりに潜んでいた。しかし、波が穏やかなときは、多数の巻貝が岩の上を餌をもとめて這い回るのを目にした。この神武歌謡は、「陸からの風が吹いて波が穏やかになったとき、伊勢ケ浜の生石の上に小さな巻貝がたくさん這い回っていた」情景を謡ったとしたい。海風は波を大きくし、陸風は波頭を低くする。出漁に良好な陸風が「神風」なのだ。
   ではその風を吹かす「神」は、誰であるのか? それは、神武にとっても彼の祖の邇邇藝にとっても、「神」となるべき人物でなければならない。その人物こそ、邇邇藝が「大神」と敬い、この伊勢の海で溺れ死に、その御霊が宿った猿田彦大神であるのだ。猿田彦大神以外に日向灘に神はまだ居ないのである。溺れ死んだ猿田彦大神は、狗奴国の海人の漁労の安全を護り、豊漁をもたらす神となったのだ。「伊勢ケ浜」は日向に住んだ狗奴国の海人の漁港の一つであったのだろう。そして、嶋(後に鉾島、細島と呼ばれる)を挟んだ北側には五十鈴川が流れている。ここには、伊勢国(三重県の伊勢・嶋=志摩)の原型があるのだ。

   それでは、この「生石(おいし)」とはなにか? 神武紀では、「於費異之」と著し、「大石」と合理的に解説している(「以大石喩其國見丘也」)。これは、だれでも理解できる。しかし、「於費異之」を「大石」であるとわざわざ解説しているということは、『紀』の編者も「於費異之」の真意をつかみきれていない様にみえる。なぜならば、読みは「旧仮名:オヒイシ」であり、「オホイシ」ではないからである。ただし、『古事記伝』では、「費」を「ホ」と読むとして「大石(オホイシ)」であると、『紀』に準じている「意斐志爾(おひしに)は『大石に』である。『ホイ』を縮めると『ヒ』になり、書紀には『於費異之珥夜(オホイシニヤ)』とある。『費(ホ)』をここで『ヒ』と読むのは間違っている。」(『古事記伝』)。

   『記』の原文での「意斐志」の現代語訳は、『紀』に従い「大石」とするものが多い。他方、『記』の次田真幸全注釈では「生石(おいし、旧仮名:オヒシ)」と著す。「意」も「生」も読みが「お」であるからである。そして「生い立つ石」と訳し、その意味を「生長する石」としている。『記紀』の記述を比較すると、『紀』の「於費異之」は、「生い石」(「生い立つ石」)と訳すのが正しい。つまり、『記』の「生石」である。「生石」つまり「生い立つ石」の意味付けは、岩波文庫『日本書紀(一)』補注3の一五「石が生長するという信仰による」との解説に従ってのことと思われる。民俗学者の折口信夫は「拾って来た石が、家に帰りつくまでに大きくなったとか、祠に祀ったのが一晩の中に大きくなって祠を突き破ったとかいう話が、数限りなく諸国にある」と記す(『霊魂の話』Web)。これが、「生石」信仰であろうか。だが、はたして神武の時代に「生石信仰」があっただろうか。

   では、この謡に歌われた「生石」の実体はなにか? 実は、この日向市の伊勢ケ浜は天然の礫石(さざれいし)の宝庫であるのだ(Web)(図10)。

 宮崎県日向市の伊勢ヶ浜の礫石
図10. 宮崎県日向市の伊勢ヶ浜の礫石
礫石とは科学的には堆積岩の礫岩であり、厚く堆積した礫が水酸化鉄などで凝固し、大きな巌に成長した石のことである。国歌「君が代」の「礫石の巌と成りて ♫ ♫」の礫石である。礫石は、まさに科学的にも「生長して大きくなった石」、つまり「生石(意斐志)」であるのだ。『紀』が記す単なる「大石」ではない。神武が謡った「細螺が這い回る意斐志(生石)」は、「伊勢ケ浜の礫石」であったのだ。『記紀』の通り、この謡を神武が作ったとすれば、神武は常時、伊勢ケ浜にでかけ、海女が食用にするため採取する細螺が、礫石の上を這い回るのを見て、歌っていたのだ「之多儾瀰能 之多儾瀰能 阿誤豫 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離」「細螺の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひもとほり」(『紀』)。「お前達よ、お前達よ、細螺がいっぱい、生石の上を這いまわっているぞ」と。

   神武は、伊勢ケ浜で「礫石」を見つめ、そして「礫石」が「生長した石」であるという地学の知識を持つにいたったということになる。だから、神武は実体験に基づき、「礫石」を「生石(意斐志)」と表したのだ。

   仮に、直木孝次郎説のようにこの久米歌(神武歌謡)が後世の奈良時代の作として、伊勢の海の「意斐志」を「礫石」、つまり「生長した石」と理解してこの謡を創ったとするのであれば、その都の歌人は、千里眼を持つ秀逸な理系超能力者といえよう(ありえない。絶対に、ありえない)。また、これまでに『記』の現代語訳が多くの先学によりなされているが、「意斐志」を「生石」と訳した先学は、「生石」が「伊勢ケ浜の礫石」であると認識してのことであろか。

   「礫石」は自然石だけではなく神社にも奉納されて祭られているが、これは、『古今和歌集』の「さざれ石」の歌にちなんでのことであろう。国歌「君が代」もこの歌を引用しているのであるが、「礫石」のオリジナリティは、「伊勢ケ浜の礫石」にあるといえるのではないだろうか。「君が代」の「さざれ石の巌」は「礫石の巌」と著すべきである。「千年、八千年かけて、細石が巌に成る」と詠った訳では無い。歌人は「礫石の巌」を見て歌っているのである。歌人の目の前にある「千年、八千年かけて成った礫石の巌」が「苔むすまで」、「君の代が長く続きますように」と解釈すべきなのだ。ちなみに、「君が代」には稲垣千頴が創作した二番あるのだ「君が代は 千尋の底の さざれ石の 鵜のいる磯と 現るるまで 限りなき 御世の栄を 祝ぎたてまつる」。この歌詞が、まさに「伊勢ケ浜の礫石」を歌っているようにみえるのは、私だけであろうか。

   『記紀』を研究する人は、机に向かって思考するだけではなく、実際に出向いて地理を知り、生物の生態を観察してほしいものである。もう一つ、久米歌が作られた時代には「枕詞」はなかったはずだから、久米歌は後世の創作であり、事実を述べていないとする説がある。直木孝次郎説に迎合した説の様に見える。しかし、逆に考えて、後世の歌人が「久米歌に枕詞を見出した」とすれば、何ら問題はないのではないか。