八紘一宇

   日向を東に向かって出発してから6年間、神武は葦原中国の豪族に対して軍事や外交を巧みに行い、また、国を治める王権のための政治体制を整えた。先述したように、日向の高千穂の宮で、瓊瓊杵、山幸彦および玉依姫から、軍事、外交、そして帝王学をきちんと教育を受けた賜物といえる。即位2年前、神武は「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや) の旨の令をだした。いわゆる「八紘一宇」である(図11)。

宮崎県宮崎市の八紘一宇の塔
図11. 宮崎県宮崎市の八紘一宇の塔
神武のいう「養正之心」つまり「正義」とは国を治める「正しい政治」のこととしたい。これには、「神を祀り」、「国の独立を護る」ことも含まれよう。そして、これはまた、『記紀』編纂を発案した天武天皇の「精神」でもあったのであろう。そして、「天壌無窮」もまたしかり。
   これで、神代紀が終わり、いよいよ人皇紀に入ったことになる。邪馬台国の縁のものは、大和王権のもとでいつも巻き返しをねらっており、狗奴国後裔と邪馬台国後裔の相剋が今後も繰り広げられていくのである。この詳細は次章から記していきたい。