十一代垂仁天皇(3)
天日槍の出石の小刀(遅れてきた邪馬台国の日矛)

   それでは、天日槍が将来した「出石の小刀」について論考しよう。「出石の小刀」は霊力があり不思議な動きをするが、それは後で述べる。では、誰が小刀を作ったのか? 実はこの時、狭穂彦の姪に当たる日葉酢媛(ひばすひめ)の父である丹波道主王は丹波国を治めていた。往時は、但馬も丹後も丹波国の版図内にあった。狭穂彦は姪に当たる日葉酢媛を介して但馬に住まう天日槍と親交を持っていたのだ。そして、天日槍から「出石の小刀」を渡され、垂仁天皇暗殺をもちかけられたのだ。「天皇を暗殺して、自身が皇位に即き、最愛の狭穂姫とともに天下を治める」という魅力的な計画である。しかし、この企みは皇后狭穂姫の天皇を愛する心情により失敗に終わった。皇后狭穂姫は死ぬ前に、事情を知らせずに事件に巻き込んでしまった姪の日葉酢媛を庇うべく、垂仁天皇の後宮に推薦したのだ。また、暗殺に失敗した八塩折り紐小刀は出石神社の宝蔵に隠された。

   垂仁十五年、丹波の日葉酢媛は皇后になり、五十瓊敷入彦、大足彦(後の景行天皇)と倭姫を含め三男二女を産む。この時、日葉酢媛の四人の妹も後宮に召された。渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛そして竹野媛である。ただし、竹野媛は醜女であったため、妃として迎えられずに、故国に帰される。媛はこれを恥じて葛野の弟国で、輿から落ちて自死する。悲しい逸話であるが、後世、この地には継体天皇の第三の宮が8年間置かれることになる。

   垂仁八十八年、垂仁天皇は天日槍の神宝に興味を示し、天日槍の後裔(曽孫では世代が進み過ぎ)の清彦に出石神社にある天日槍の八種神宝を献上させる。清彦はその中の「出石の小刀」が垂仁天皇の暗殺計画に使われたことを聞き及んでおり、これを献じることはヤバイと判断して、自分の衣の中に隠す。しかし、「出石の小刀」は霊力があり、清彦が天皇から酒を授かる時、衣の中から出てしまう。清彦は秘匿できないと判断して「出石の小刀」を天皇に献上する。ところがその小刀は天皇の宝府から消えうせ、夕方に清彦の家に戻るが、早朝にまた消えてしまう。その後、自然に淡路島に現れ、島民に祭られて今に至る。結局「出石の小刀」は、渡来当初天日槍に帰化が許された淡路島に渡り、祭られることになるのだ。小刀が自然に空間移動できる訳ではなく、清彦が「出石の小刀」の証拠隠滅を謀ったのだ。目的は、日葉酢媛とその子の五十瓊敷入彦、大足彦と倭姫の安泰のためである。
   狭穂姫以外にも、狗奴国本貫の皇子を愛しすぎたがために暗殺に失敗した邪馬台国後裔の姫がいる。その話は、後で述べる。

   以上が、「出石の小刀」譚の顛末である。では、この垂仁天皇の暗殺計画を立案したのは誰であろうか? それは、但馬の地(豊岡市を含む)一帯に数千基もの古墳を築いた邪馬台国後裔の権力者と考えたい。この豪族は垂仁王権との接点が無かった。そこで、天日槍を新羅の王子に偽装させて、播磨に派遣し、帰化を申し出ることで垂仁王朝との接点を得させたのだ。但馬に定住した天日槍は丹波道主王や日葉酢媛を介して狭穂彦と親交を結び、狭穂彦に皇位を狙うようにしむけたのだ。それは、狗奴国本貫の皇統を抹殺するための計画であった。邪馬台国東遷のところでも述べた様に出石神社の近くの出石川周辺から丸山川河口までの地域は、邪馬台国後裔の豪族の支配地であったのだ。饒速日を祀る海神社や絹巻神社があり、銅鐸祭祀もあった。天日槍が突然播磨に出現したのは、若狭湾から由良川を遡り、氷上の中央分水界を渡って加古川に入って下れば、河口の播磨に至ることができたからである。勿論その手引きをしたのは、宮津にいた海部氏の祖であろう(宮津市元伊勢籠神社の社家となる海部氏は天香語山を祖とする)。天之日矛であるが、天之日矛(天日槍)は『記』と『播磨國風土記』にもでてくる。『記』では応神天皇段に出てくるが、昔話しとして記されているので、垂仁天皇の時代を指すのであろう。『記』での天之日矛の宝物は奥津鏡と辺津鏡の他に玉が2貫、浪振領巾(ひれ)、浪切領巾、風振領巾、風切領巾の八種神宝であり、『先代旧事本紀』が記す、饒速日が天照大神から授かった瀛都鏡と辺都鏡、玉、比礼と酷似する。他方、『播磨國風土記』では天日槍は渡来の神として、播磨の揖保川に来て葦原志挙乎(大國主)と居住する領土の奪い合いを行っている。争いの顛末では、双方が3本の黒葛を投げる占いを行い、葦原志挙乎の葛は播磨に1本・但馬に2本、天日槍の葛は全て但馬に落ち、故に天日槍は但馬の出石に住むことになる。風土記の話は、神代にまで遡る。そして、貢物は持参していない。いずれにしても『記紀』は天日槍(天之日矛)を新羅から播磨国への渡来人としている。ところが、天之日矛の宝物に注目すると、『記』では奥津鏡と辺津鏡が含まれる。まさに邪馬台国後裔の表徴を天之日矛は持っていたのだ(同じ息津鏡と辺津鏡は元伊勢籠神社にも伝わる)。それに、天照大神の天の岩屋戸隠れの時、石凝姥命が天の金山の銅を採って、「日矛」を作っている(『紀』、『先代旧事本紀』)。『紀』では、「出石の矛」として矛を持参している。天日槍(天之日矛)はまさには「日矛」にちなんだ名前なのだ。天之日矛は「遅れて東遷した邪馬台国人」であったのだ。それであるからこそ、邪馬台国後裔が支配している近江から若狭を自由に通ることができた。また、近江の鏡邑における従者の定着も容易く受け入れられた。そして邪馬台国後裔の豪族が支配する出石に、残りの従者ともども定住したのだ。淡路島に住む事はいろいろと都合が悪いため、拒否をしたのだ。もし仮に天日槍が新羅人であったとしても、当時、新羅人が半島から自力で渡来する事は不可能であった。その証拠に、後で記す『三国遺事』にある伝承では「延烏は岩に乗って日本に行った」と記す。自動の岩であって船ではないのだ。新羅には造船技術がなかったのだ。

   では、なぜ、応神天皇記で、天之日矛を新羅の王子(こにきし)としその来朝の動機を長々と記すのか? それは、神功皇后が新羅に侵攻して支配下に置いた結果、新羅の民話(古伝承)を倭人が知ったからである。そして「日光による妊娠、玉産み、玉からの女児の誕生などなど」の内容を珍奇と覚えたからであろう。類似の説話はまだ、倭国に伝わっていなかったとみえる。未遂とはいえ垂仁天皇を暗殺しようとする計画に組みした者が「遅れてきた邪馬台国人(天之日矛)」では都合が悪いのだ。それ故、天之日矛に新羅の民話をかぶせ、天之日矛を新羅人に仕立て上げたのだ。

   また、新羅遠征を遂行した神功皇后は天之日矛の裔孫としている。神功皇后の母の葛城高顙媛の出身地はわからないが、葛城を名に持つことから、大和国の葛城邑出身ともとれる。葛城邑(旧高尾張邑)には天香語山が入り込み、尾張氏を興していた。尾張氏と但馬の「遅れてきた邪馬台国人」である天之日矛の裔孫が、但波の邪馬台国後裔の豪族(海部氏)を介して繋がりを持ったと、私は考えたい。神功皇后の系図の解析については仲哀天皇章で詳述する。

   垂仁天皇紀では、天日槍に新羅の民話はかぶされていないのは、民話はまだ伝わっていなかったためである。応神天皇記の天之日矛条は、最後に「落ち」を記している。それは、「天之日矛の持ち渡りし物は、・・・・および奥津鏡、辺津鏡、併せて八種なり」で、往時の人がこれを知れば、天之日矛は、饒速日と同じ邪馬台国人であることは自明であったのだ。

   天日槍が邪馬台国連合の国であった伊都国出身とする伝承もある。仲哀天皇紀にでてくる怡土縣主等祖五十跡手であるが、彼は鏡・剣・玉を五百枝賢木に飾って天皇を迎えている。その五十跡手が、『筑前國風土記』で「高麗國意呂山自天降來日桙之苗裔」(高句麗の意呂山に天降った日桙の苗裔)となっているのである。『風土記』では、天日槍は高麗=高句麗からの渡来となっているのだ。新羅人ではない。当時、三韓とは異なり、高句麗は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とするなど文化度が高い大国であった(図2)。これは、天日槍の経歴の箔付けであろう。

四世紀中期の半島の国々
図2. 四世紀中期の半島の国々

私が、天之日矛を「遅れてきた邪馬台国人」としたのは、天之日矛を天照大神=卑弥呼の長男の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳の後裔と判断したからである。忍穂耳は、皆既日食の朝に邪馬台国の武人に誅殺された卑弥呼が伊都国に帰葬された時、卑弥呼の冢を守るため伊都国に残ったとしたい。台与が京都郡に遷都した後、台与は忍穂耳と結婚して天火明(=饒速日)を儲けた。しかし、忍穂耳は、饒速日の東遷に追従することなく、伊都国に残って王に推戴された。死後、忍穂耳は台与により英彦山の中岳を依代して葬られた(後の英彦山神宮)。その忍穂耳の裔孫が天之日矛であり、但馬の出石に到ったのである。他方、伊都国に残った裔が、仲哀天皇紀にでてくる怡土縣主等祖五十跡手なのだ。五十跡手は、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を持って仲哀天皇を迎える。五十跡手は、仲哀天皇に恭順したのである。時は狗奴国王統の時代であった。そして、三種の神器の由緒を知らない狗奴国王統の仲哀天皇に、邪馬台国に伝わる由緒を奏上し、それを知った天皇は大いに喜んだのであった。五十跡手が、天日槍の末裔として伊都国に居たということから、出自はともかく、天日槍は旧伊都国(怡土国)より、日本海航路で播磨国に到ったことは確かといえるのである。

   *後世の人々(自虐史観をもつ現代の研究者や学者も含め)は、『記紀』にみごとに騙されているのだ。あるいは、先進の技術をもつ新羅の王子が来朝して、倭国の文化向上に寄与したに違いないとの思い込みに基づいて、誤解しているのだ。当時の新羅に日本の文化を凌駕する文化はなかった。『隋書』倭国伝は記す「新羅 百濟皆以倭為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭国を手工業製品が多い技術大国として、並んでこれを敬仰し、常に通使を往来させている)。この一文がその証左である。いかに、新羅の王族が倭種の賢者であろうとも、人民や兵は、他人の物を強奪するような土人であったのだ。