十四代仲哀天皇
(2)仲哀天皇筑紫に死す

   その後、怡土縣主等祖五十跡手の出迎えを受け、天皇・皇后は儺県(なのあがた、奴国)に至って橿日宮を建てて住まう。この宮で、熊襲討伐を群臣たちと謀議するが、神が皇后に憑依して、熊襲を討つよりは、新羅に進攻する様に勧める。「新羅には金銀財宝があり、憑依した神を祭れば、戦わずして新羅は屈服し、また熊襲も服従する」と宣託する。しかし、天皇はこの神託を信じる事をせず、高い丘に登って大海を望むが、国を見つける事をできなかった。そこで天皇は神に、「見回してみたが海があるだけで国はなかった。神は自分を欺くのか? 自分は全ての神を祀ってきたが、それに漏れた神であるのか?」と反論する。神は皇后に憑依して、「自分には鮮明にみえる国があるのに、なぜ国が無いというのか。自分を誹って信じないのであれば、その国を得る事は出来ない。皇后は懐妊した。その子が得るであろう」という。しかし天皇は神託を信じることなく、熊襲を討とうとするが失敗する。

   仲哀九年、天皇は急死する。神の罰が当たったのだ。一説では熊襲の矢にあたって死亡したともする。この時、皇后と武内宿禰は天皇の喪を隠した。武内宿禰らは天皇の遺体を海路長門の豊浦宮に運んで灯火を焚かずに仮葬した。橿日宮にいた神功皇后は新羅討伐(新羅の役)のため天皇の葬儀はできなかった。

   なぜに仲哀天皇は熊襲討伐にこれほどまでにこだわったのか? それは、父の倭建の業績を自分もなぞりたかったのであろう。それは、「天皇は、群臣に詔して仰せられた。『私がまだ成人しないうちに、父王の日本武尊はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日も休むことがない』。そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた」のエピソードからも分かる。

   仲哀天皇と気長足皇后が仮宮とはいえ敦賀の笥飯宮に行幸している。また、仲哀天皇は数百の手勢を連れて紀伊国の名草郡の徳勒津宮に行幸している。まず、敦賀への行幸について考えよう。後の名草郡への行幸と同様に提案したのは武内宿禰なのだ。武内宿禰は王朝の政務を統括していた。武内宿禰は、国内がほぼ平定できた事を覚えていた。それで、半島への進出を考えていたのだ。それは、半島を領有するだけが目的ではなく、もう一つの隠れた目的があった(この事は後述する)。武内宿禰は、景行天皇紀二十五〜七年に北陸道と東海道に派遣されており、敦賀に大加羅国(=任那)の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が来ていた事を知っていた。もちろん都怒我阿羅斯等は単独で来たのではなく従者をつれていた。その従者の何人かが帰化して敦賀や近江の北部に居住していた。帰化人は、大加羅国の倭種であり、言葉は通じた。その帰化人から半島の情報を仲哀天皇に聞かせて、半島進出の気持ちを持たせようとしたのだ。あるいは、敦賀には任那との交流拠点があり、半島の情報が得やすかったとも考えられる。進出の対象が日本海側に面した新羅であったのだ。当時の新羅は邪馬台国の時代の化外の地ではなく、因幡国出身の「昔脱解」が国王になり、同じ倭種の瓠公を大臣にして、国力をつけ、辰韓の一小国であった新羅を半島の大国へと発展させていた。それでも、まだ国は貧しく、百済の助力のもと東晋と交易し、また、北の高句麗には隷従していた。新羅の交易品は鉄の他には絹織物しかなかった。高句麗王朝への朝貢はもっぱら献女であった。高句麗に新羅は献女外交を行い、高句麗王朝から金銀の下賜を受けていたと思われる(『太平御覧』秦書 372年、「新羅王、楼寒は、前秦の符堅に美女を献じた」(Web)とあり、高句麗に対しても同様であったと思われる。ここで、間違えてならないのは、高句麗は韓民族ではなく、農耕・狩猟・牧畜をする濊貊系民族で騎馬ができる民族の国であった。後述するが、半島に進出した倭国軍はそれまでに遭遇した事の無い高句麗の騎馬軍団に完敗することになる。武内宿禰は、東晋が影響力を落とした半島の新羅と百済を討って朝貢国にしようと計画していたのだ。あるいは文化程度が高い高句麗との交流を図ろうとしたのかもしれない。