十四代仲哀天皇
(1)気長足姫が体験した海況異常(浮鯛現象など)

   足仲彦天皇(=仲哀天皇)は倭建の御子である。成務天皇には子が無かったので、倭建の御子の足仲彦が皇位に即いたとなっている。おそらく、足仲彦が天皇として政務を遂行できるほどに十分に成長したため、成務天皇は皇位を譲ったのかもしれない。石上神宮の神宝の管理権を妹大中姫に譲ったと同じ様に高齢を理由にして。。

   仲哀二年、気長足姫 (おきながのたらしひめ) を皇后とした。気長足姫は後の神功皇后である。これより先に仲哀天皇は大中姫を妃としていた。妃は香坂王と忍熊王を産んだ。この年、仲哀天皇と皇后気長足姫は敦賀に行幸して仮宮の笥飯宮を建てて滞在する。翌月、天皇は、多くない臣と兵を伴って南海道に行幸し、紀伊国の名草郡に仮宮の徳勒津宮を建てて滞在する。ここで熊襲の叛乱の報を得る。天皇は喜び勇んで、熊襲を討つため仮宮を発して、瀬戸内海航路で穴門(長門国)の豊浦津に向かう。また、皇后の気長足姫にも敦賀を発って豊浦津で落ち合うように連絡する。皇后は途中、渟田門に着くが、ここで皇后が船上に食を取ったところ、「鯛が多く船の傍に集まった。酒を灑ぐと、鯛が酔って水に浮かんだ。海人これを獲て喜んで曰く、『聖王の賜うところの魚なり』と。そこの魚、六月に至れば、常に傾浮(あぎと)うこと酔えるがごとし」という海況異常が起こる。これは、魚類学的には、「浮鯛現象」であるのだ。マダイは底生である。海底に岩礁がある海域で、潮流に乗っ‬て来た鲷が浅い水深へ急上昇すると、低下した水圧で鰾が膨満するため「酔えるがごとく」に浮かび上がるのである。この浮鲷‬現象‪は今でも毎年四十八夜から八十八夜にかけて三原市幸崎町能地‬でよく見られる(『瀬戸内海の歴史と文化』松岡久人 1979年 『瀬戸内海文化シリーズ1』)。また、谷川士清『日本書紀通証』(1762年)は、「豊田郡のあたりの海では初夏になると浮魚海を蔽うこと数日、称して浮鯛という」とする(Web)。さらに『芸藩通志』(1825年)は、「豊田郡能地村の青木迫門(現在の広島県三原市幸崎町・須波町と豊田郡高根島との間の青木瀬戸)を渟田門の故地」とする(図7)。ここでは春になると浮鯛漁が行われたからである(Web)。

浮鯛現象が見られる三原市幸崎町能地付近の瀬戸内海の絵図(瀬戸内遠征記所収))
図7. 浮鯛現象が見られる三原市幸崎町能地付近の瀬戸内海の絵図(瀬戸内遠征記所収)
この浮鲷‬現象は、能地ほど有名ではなくても、かつては瀬戸内海の‬各地で見られたらしい。それらの土地の漁師は、今でも春に鯛が浮くことを知っている‬という。

‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬    ここで、渟田門の地理が問題になる。岩波文庫の『日本書紀 二』の解説では、伴信友の神社私考をもとに福井県三方郡あたりを示唆するが、不詳とする。もし、浮鲷‬現象が日本海で起こったとなれば、海況異常といえる。他方、瀬戸内海地方では、浮鲷‬現象は、春にマダイが群泳する時期には恒例となっている。『紀』でも「六月に至れば、常に傾浮うこと酔えるがごとし」と記しており、毎年見られる現象と判断される。であるならば、渟田門は『芸藩通志』の記す三原市幸崎町・須波町と豊田郡高根島との間の青木瀬戸とするのが合理的である。しかしながら、気長足皇后は若狭湾の敦賀を発ったことになっており、航路は当然日本海航路となるはずである。この矛盾を解決するのが、古代の「氷上の水上航路」である。幾度も前述したように、若狭湾から由良川に入り、氷上の中央分水界を抜け、加古川を下れば播磨灘に至ることができるのだ。気長足皇后はこの「氷上の水上航路」を使って播磨灘に入り、渟田門つまり青木瀬戸で浮鲷‬現象を体験したのち、豊浦津に至ったのである。ただし、『紀』の六月は太陽暦の七月下旬から八月になり、浮鯛現象は季節外れに起こったことになる。

   そして、長門国の豊浦にたどり着いた皇后はここでも海況の異変に遭う。海中に如意珠を得た。仏教が伝わっていないこの時代に「如意珠」は合わない。風土記の逸文には白真珠とする。おそらくはアワビの殻にできる大真珠であろう。

   後日談(允恭十五年)になるが、淡路島に狩りに来た允恭天皇に伊弉諾神は祟った。一日かかっても獲物が一匹も捕れない様にしたのだ。伊弉諾神は明石の海の真珠の奉納を望んだ。しかし、淡路の海人はだれも深く潜る事ができなかった。そこで、阿波国の男狭磯(おさし)が60尋潜って大アワビを採り、大きな真珠を取り出して神に供えた。男狭磯は潜水病で死んだが、天皇の狩りは豊猟となった。それを喜んだ天皇は、男狭磯を悼み墳墓を作って葬った。

   この説話からもわかるように60尋も潜って採らなければならない大アワビを、気長足皇后はやすやすと採り、そして大真珠を手に入れたのだ。海況異常で潮が激しく引いていたか、大アワビが浅瀬に上がってきていたのであろう。

   天皇と皇后は、豊浦に落ち合い豊浦宮を建てて6年滞在する。景行天皇しかり、仲哀天皇しかり、都を数年以上空けて遷幸するのが好きである。だがなぜか、仲哀天皇記に豊浦宮6年間の事蹟は無い。『紀』の年代調整のためであろう。

   仲哀八年、天皇は豊浦宮をでて船で九州の遠賀潟の岡の水門に向かうが、洞海湾で海況の異変に遭い、船が進行できなくなる。洞の神の仕業だと判断した地元の熊鰐の進言で、洞の男女の神に奉祭して、ようやく船は進行できた。皇后は別の船で同じく洞海湾に入るが、潮が大きく引いてしまって立ち往生する。皇后はいらだつが、地元の熊鰐が鳥池と魚沼を作って鳥や魚を集め皇后をもてなしているあいだにようやく潮が満ちて、船を遠賀潟の岡津(岡の水門)に着ける事が出来た。