十一代垂仁天皇
(11)治世

   垂仁九十九年、垂仁天皇が崩御する。この年の干支は辛未であり、西暦371年になる。活目入彦五十狭茅の誕生年の干支は壬子で西暦292年である。立太子を24歳とする。崇神天皇崩御年を318年とすれば、立太子は26歳となりほぼ納得できる歳である。そうすると、垂仁天皇治世53年、享年79歳と計算できる。しかしながら垂仁三十九年以後、事蹟年代が大きく跳ぶ。崇神天皇紀と同様に事蹟が密な年代を実際の治世であると判断して、垂仁天皇治世39年、享年65歳と変更できる。景行天皇紀では崩御年の干支が垂仁天皇の崩御年と同じ辛未である。一還暦後の辛未とみるよりは、垂仁天皇治世の残り14年が景行天皇治世および倭建の活躍の年数とした方が合理的である。それでは、『紀』に従って、日本武尊(倭建命)の活躍年を見てみよう。景行二十七年、景行天皇は小碓(日本童男、後の日本武尊)を九州の熊襲討伐に派遣する。時に小碓は16歳である。その後景行四十三年、日本武尊は三重の能褒野で死亡する。計算すると、享年32歳となる。年齢を数え年とすると熊襲討伐の歳を16歳として、垂仁天皇治世の残り14年を加えると31歳になり、『紀』が示す享年30歳とほぼ同じになる(年代の計算では32歳)。つまり、垂仁天皇崩御と比定した西暦371年(辛未年)は、日本武尊の崩御年とすることは合理的である。そして成務天皇即位年にもなる。