十一代垂仁天皇
(6)天照大神の鎮座と伊勢

   垂仁二十五年、
三月の丁亥の朔にして丙申に、天照大神を豊鋤入姫命より離ちまつり、倭姫命に託けたまう。爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の篠幡に詣り、更に還りて近江国に入り、東の美濃を廻り、伊勢国に到る。時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随に其の祠を伊勢国に立て、因りて斎宮を五十鈴川の上に興てたまふ。

   以上『紀』の記述であるが、「大神の教の随に其の祠を伊勢国に立て云々」では不十分である。『倭姫命世記』(鎌倉時代初期から中期に成立)は、「垂仁二十六年に五十鈴河を遡り、その河のほとりに宮を建てて天照大神を鎮めた」と記す。これが、現在の神宮内宮になる。このようにして、天照大神は倭姫の導きで以下に記す各地を漂泊したのち、伊勢国の神宮内宮の地に鎮座したことになる。では、なぜ、天照大神は、伊勢の五十鈴河のほとりに鎮まりたいと欲したのであろうか? 当然のことながら、いかに大神とはいえ、神魂の鏡が「是の国に居らむと欲ふ」という意思を倭姫に告げた訳ではない。倭姫が、天照大神を鎮めるにふさわしい場所として旧度會県(伊勢市)を選んだとするのが理に合う。では、なぜ伊勢市の五十鈴川のほとりが最適地であると言えるのか? 現在の伊勢市を含む南勢地域の地図(航空図 図3)をよく見てほしい。

三重県伊勢市と志摩市の航空地図
図3. 三重県伊勢市と志摩市の航空地図
伊勢市の北に宮川があり、その南に至ると五十鈴川が流れる。また、南と西には紀伊山地東端の山々がある。東には遠州灘が広がり遥か太平洋に臨む。倭姫は、太平洋の水平線遥が「常世」と覚えたのだ。「常世」とは「日出る処」、恒常的に日が昇る処であるのだ。私は、邇邇藝が天降った地域を、日向灘に臨む延岡市の五ヶ瀬川から東臼杵郡の伊勢ヶ浜を含む五十鈴川の河口の平野地と比定している。それ故、五ヶ瀬川を宮川に、五十鈴川を五十鈴川に、日向灘を遠州灘に、そして九州山地を紀伊山地に当てることができる。つまり、伊勢は、邇邇藝が天降った「朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地」と同じ地勢なのである。倭姫は、天照大神を鎮める最適地を、遠祖の邇邇藝が天降った地と同じ処を、紀伊半島東端に求めたのである。往時、この地域は、まだ名を持っていなかったとしたい。倭姫は、邇邇藝縁の地名(伊勢ヶ浜、五十鈴川、狭長田)を、ここに移植したのだ。それが、「神風の伊勢の海」であり、五十鈴川であったのだ。どうも狭長田は定着しなかったようであるが、手力男神の座す佐那那県 (多気郡多気町)として定着したのかもしれない。蛇足になるが、『伊勢國風土記』にでてくる伊勢津彦の逸話は、この狭義の伊勢の命名由来にはならないとすべきなのだ。前述したように、伊勢津彦が吹かせた八風は「鈴鹿おろし」であり、その八風は、北勢にあたる菰野町の鈴鹿山脈に八風峠として名を残しているからである。現在の三重県を表す「伊勢国」の命名由来とすべきである。
   天照大神の遷座は、天照大神と倭大国魂神(大國主)が崇神天皇および皇女の淳名城稚姫に祟ったことに起因する。ではなぜ、倭大国魂神は祟ったのか? それは奉祭する者が適者ではなかったからである(垂仁紀二五年条)。また、天照大神は、崇神(=神武)天皇の御殿に奉安されため、崇神天皇に神威を及ぼしたのだ(天皇はそのように理解した)。奉安される処が適所でなかったのだ。それで、崇神天皇は笠縫邑の神籬に遷座させて豊鋤入姫に奉仕させた。しかし、天照大神は、鎮まらなかった。鎮座する場所が適地ではなかったからである。豊鋤入姫と倭姫は、天照大神を鎮める最適地を求めて、諸国を漂泊したことになるといえよう。最終的に、倭姫は、天照大神を遠祖の邇邇藝が天降った処と同じ地勢の地に奉安して、以後祟りを成さない様に鎮めたのだ。それは、邪馬台国の卑弥呼の神魂を狗奴国の邇邇藝の霊威で鎮めることを意味すると言えよう。

   もう一つ、神宮鎮座に関する書がある。それが、『倭姫命世記』で、鎌倉時代初期から中期にかけて、伊勢外宮の神官の度会氏が編纂したものとされる。内容の多くは地名説話であるが、神宮をよく知る度会氏ならでわの記述もある。
   垂仁二十六年(丁巳)冬十月(甲子)、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る。その夜、皇太神が倭姫命の夢に現はれ、「我、高天原に坐して、甕戸に押し張り、むかし見て求めし国の宮処は是処なり。鎮り定り給へ」と諭された。倭姫命は、「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国、浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国、打まきしめる国、敷浪七保国の吉き国、神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の折鈴五十鈴宮に鎮り定り給ふ」と、国寿きされた。送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞こし食して、大鹿嶋命を祭官に定め、大幡主命を神の国造兼大神主に定められた。神館を造り立て、物部八十友諸人等を率ゐて、雑雑の神事を取り総べ、天太玉串を捧げて供奉させた。よって斎宮を宇治県の五十鈴川上の大宮の際に興し、倭姫命をして居らしめた。

 天照大神の鎮座した処は「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国」であり、まさに邇邇藝の天降り地の「朝日の直刺す國、夕日の日照る國」に適合していると、倭姫は認識したのである。また、神風の伊勢国とはいえ、神宮はやや陸奥にあり、「浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国」という、静寂で平安な処であるのだ。決して暴風が吹く処ではない。ただし、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県云々」は、神功皇后が神憑かりしたときの神勅のコピーである(神功皇后摂政前紀)。そして、この書では、狗奴国系の大幡主命が伊勢国造兼大神主に任命される一方、邪馬台国の饒速日を祖と仰ぐ物部氏も、天照大神の鎮座に働き、神宮衛士を務めていたのだ。物部氏は卑弥呼の神魂にきちんと寄り添っていたことがわかる。