十一代垂仁天皇
(4)非時香菓

   垂仁九十年、天皇、田道間守に命じて、常世国に遣わして、「非時の香菓」を求めしむ。
   垂仁九十九年、垂仁天皇が崩御する。その翌年田道間守は、十年ぶりに「非時の香菓」を持って帰京するが、垂仁天皇は既に亡くなっており、陵の前で泣き叫んで自死する。田道間守が持ち帰った「非時の香菓」(ときじくのかくのみ)が橘であるという。

   『記紀』ともに垂仁天皇紀が田道間守の「非時の香菓」の話で終わっていることから、記紀の解説は、この話を重要視するが、『魏志倭人伝』を見れば、邪馬台国には野生の橘が生えていると記してある。田道間守は九州島に出かけて橘を採り、持ち帰っただけである。祖先の天之日矛の出身地である伊都国や邪馬台国に出かけていたのだ。橘の話が、祖の天之日矛から伝わっていたのであろうか。田道間守の旅の期間が10年と永いため、「常世の国とは時限を越えた生命力の根源世界」との解説がある(次田真幸注『古事記』、折口信夫『妣が国へ・常世へ』)が、とんでもない間違いである。そんな世界など実在するわけがない。ここにでてくる「常世の国」は、「妣の国(なき母の国)」である伊都国であったのだ(往時の猿女君も、そのように理解していたはずである)。『魏志倭人伝』に橘が記されているが、「不知以為滋味」とある。もし、旅に時間がかかったのであれば、「香味が強く、酸味の弱い果実」を付ける木を探し求めたのであろう。神仙思想と史実を混合しない解説が望まれる。ちなみに、森尾古墳の付近には中嶋神社があり、その主祭神が田道間守である。現在も「菓子の神」として製菓業者の尊崇を受けている。

   後日談になるが、皇極天皇の時代に「常世神」信仰が流行する。『紀』は記す。
   皇極天皇三年(644年)、東国の富士川の近辺の人・大生部多が村人に虫を祀ることを勧め、「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせた。やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。ここにおいて、山城国の豪族・秦河勝は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。
   ここに出てくる常世神なる「常世虫」は、「常に橘の樹に生る。あるいは山椒に生る。長さは四寸余り、親指ぐらいの大きさである。その色は緑で黒点がある。形は全く蚕に似る」とある。ミカン科を食草とするナミアゲハかクロアゲハの幼虫であろうが、色合いからナミアゲハと理解できる(図3)。

常世虫 (ナミアゲハの幼虫)
図3.常世虫 (ナミアゲハの幼虫)
田道間守が九州から奈良県に持ち込んだ橘に付いて伝播し、七世紀中頃には静岡県まで生息域を拡大していたことがわかる。ちなみに、野生橘の北限が静岡県沼津市である。これと同じ蝶がフィリピンのルソン島にも棲み、ベンゲットアゲハと呼ばれている。ナミアゲハの祖先は、古代にルソン島を通った台風に乗って南九州に運ばれ、日本固有の橘や山椒を食草にして定着したのであろう。