十二代景行天皇
(2)倭建の熊襲討伐

   それでは残る薩摩の熊曾(後の阿多隼人)を討ったのは誰であるのか? 

   景行二十七年十月に小碓は熊襲討伐に派遣される。御年16歳であった。十二月に熊襲国に入り、魁帥の川上梟帥(取石鹿文、『記』では熊曾建兄弟)を討って、熊襲(熊曾)を平定する。この時、倭建(日本武)の尊号を川上梟帥から奉られる。『記紀』ともに具体的地名は記されないが、川上梟帥の領地が薩摩半島にあったとしたい。具体的地名が無いのは、景行天皇と倭建の熊襲討伐譚が架空である証拠とするよりは、薩摩半島はまだ未開で、地名が無かったためと判断すべきである。当然、阿多も笠狹碕の地名も無かったのである。これで、『先代旧事本紀・国造本紀』が記すように、「大隅と薩摩の熊曾(隼人)が、景行天皇の御世に平定された」ことになる。

   それでは、小碓は熊曾建の弟といったい何語で会話して、「倭建(日本武)の尊号」を奉られたのか? 通説では、薩摩半島の辺境に居た熊曾建のような下位の者が大王の御子に、自らの一文字「建」(武)を奉るのは理に合わないとし、後世の偽作とする。私は、当然、戦う二人には会話は無かったとしたい。二人の対話は、小碓を倭国随一の勇者とするための脚色と考える。その脚色をしたのは、景行朝庭にいた猿女君であったと判断する。余談になるが、小碓は身長約2m(二丈)の大男である。姨の倭比売(倭姫)から授かった御衣・御裳を身に着ければ、おそらくミニスカートを着けたようになろう。熊曾建兄弟は、ミニ装束の小碓に惑わされたのであろうか?