神功皇后の摂政
(2)百済・新羅外交

   応神天皇記では、新羅と百済の朝貢を簡単に記すのみであるが、神功皇后紀では、新羅と百済との外交上の問題を色々と記す。古も、半島の人々との付き合いは煩雑であったのだ。以下、外交について論考する。

   摂政五年、新羅王からの朝貢があった。新羅王は倭国に人質となっている弟微叱許智を帰国させようとする。微叱許智の嘘の理由による帰国を神功皇后が許し、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を同行させる。ところが、新羅の使者に騙されて微叱許智を逃がしてしまう。葛城襲津彦は、その使者を捕まえて牢に閉じ込め、焼き殺す。そして新羅に渡り、草羅城を落として、漢人(あやひと)を連れて帰る。この葛城襲津彦は武内宿禰の息子である。

   新羅の王子が人質として倭国に送られ、倭国王を欺いて新羅に帰国する話は『三国史記』新羅本記にもある。新羅が倭国に人質を送っていたことは史実であろう。この時、倭国に連れてこられた漢人は、楽浪郡や帯方郡が313年に高句麗により滅ぼされたため、新羅に逃れていた漢人であろうか。倭国で厚遇されており(桑原、高宮、忍海などの祖)、貴人か技術者であったのであろう。そのうちの忍海漢人(おしぬみあやひと)は、渡来当初葛城氏に属したが、後述する雄略天皇時代に東漢氏に編入され、蘇我氏の時代には飛鳥寺の建築に鍛冶師として参画した。

   摂政四十六年、百済の使いが、倭国と親交のある加羅の一国を訪ね、倭国への朝貢を申し出る。倭国から派遣されていた斯摩宿禰はそれを聞いて、百済を訪れて百済王を慰労する。その時、王は、百済の宝物殿を開け、その宝物を献上する事を約束する。そして、百済王から絹織物や鉄鋌が斯摩宿禰に贈られた。

   摂政四十七年、百済王の遣使が新羅の調使とともに来朝し、神功皇后と応神天皇に謁見する。その時、新羅の貢物は珍異な物が多いが、百済の貢物は卑賤であった。不審に思って百済の使者に問うと、「珍異な貢物をもった百済の使者が新羅領内で道に迷い、その時、新羅人が百済人の貢物を奪った。新羅人はそれを自国の調とした。この事をバラせば百済の使者を殺すと脅した」とうい事がわかった。賎しい貢物は新羅の物であったのだ。そこで、新羅懲罰の派兵が行われることになる。

   摂政四十九年、荒田別と鹿我別を将軍とする軍勢を新羅に派遣し、百済兵とともに新羅を討って、加羅など七国を回復した。また、忱彌多礼(とむたれ=済州島)を百済に与えた。百済王は感謝し、毎年春秋に朝貢することを約束した。摂政五十年、新羅討伐の荒田別らが帰国した。

   この時代、新羅には特段の手工業も無かったことがわかる。他国の物を奪って我が物とする化外の地のままであったのだ。
   また、百済は、倭国に友好的であった。軍事力は強くないが、ある程度の手工業はあったようである。しかし、造船の技術は無く、倭国への朝貢は倭国の船により行われていたのだ。
   『広開土王碑文』にも、倭国の大軍が新羅城に満ちていたことを、400年の事として記している。神功皇后の新羅遠征から九年目のことである。神功皇后紀は年代を大きく後に延ばしたようである。倭国は新羅にたびたび出兵していた事がわかる。この出兵で、倭国軍が加羅を含む半島南部諸国を平定した事になっているが、『広開土王碑文』では高句麗の騎兵五万が加羅を攻撃した事になっている。また、倭国軍は高句麗軍と直接戦火を交えた事もあり、404年と407年には、倭国軍は高句麗軍の歩兵と騎馬兵に大敗を喫したと碑文は記している。倭国軍の歩兵は高句麗の騎馬兵に対戦するのが難しかったのだ。他方、『三国史記』高句麗本記には、倭国との戦争の記述はない。このように、神功皇后の摂政時代前半は、新羅・百済・高句麗との戦争を交えた外交にあけくれた十七年間(391〜407年)ともいえる。
   そして、また、神功皇后は413年に東晋に朝貢する(『晋書』安帝紀)。これが、邪馬台国系王統になって初めての華夏王朝への朝貢である。266年の台与の西晋への朝貢以来、百余年ぶりの朝貢となる。狗奴国王統が、華夏王朝への朝貢を『正義』としなかったことに反し、邪馬台国系王統では卑弥呼流の朝貢外交が復活したのである。
   また、この年、高句麗の広開土王が没し、長寿王が即位して東晋に朝貢している。翌年には、長寿王により広開土王碑が建てられた。

   摂政五十年、百済王の使いが来朝した。皇后は喜び、(伽耶の)多沙城(たさのさし)を与えた。

   摂政五十一年、百済が朝貢してきた。皇后と太子および武内宿禰は喜び、皇后は「私が親しくする百済は天の賜物である。敦く恩恵を与えよ」と言った。また、帰国する百済の使いとともに千熊長彦を百済に派遣し、「百済とは深く長い友好を続けたい」と伝えた。百済王と王子は忠誠を誓った。

   摂政五十二年、百済の使者が来朝し、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡をはじめ、数々の宝物を献上した。その七枝刀は奈良県天理市の石上神宮につたわる。七子鏡は、私の研究では、七個の乳座をもつ獣帯鏡と判断できる。おそらく輸入した後漢鏡であろう。
   以上の様に、百済とは非常に友好的な外交関係を維持してきた。『三国史記』百済本記にも倭国との戦争の記述はない。

   摂政六十二年、朝貢を怠った新羅を攻撃する。『三国史記』百済本記は以下の様に記す。  新羅攻撃ために葛城襲津彦は海を渡るが、港に出迎えた新羅の美女に惑わされて倭国と親しい加羅を攻撃する。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至が倭国に至って天皇に直訴すると、天皇は怒って、百済の木羅斤資を使わして襲津彦を攻め、加羅を戻した。一方、襲津彦は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺した。
   この事件は応神天皇の治世時代であろう。ちなみに、葛城襲津彦は武内宿禰の子であり、その娘の磐之媛は後の仁徳天皇の皇后となる。悋気の強い皇后であった。葛城襲津彦は新羅外交を統括するが、新羅王得意の献女外交(今で言う所のハニートラップ)に見事に嵌まってしまったのだ。北の強国の高句麗に隷従しながらも国を維持してきた邪智姦計に富む新羅王に、島国育ちの葛城襲津彦は籠絡されたのだ。その後の統一新羅も、唐王朝相手に献女を続ける。国に手工業は発展せず、貢ぎ物を揃える事ができなかったことが窺える。その後半島に勃興した国々も、宋、元、明、清の王朝に隷属し献女外交を繰り返す。半島には美女が居なくなってしまわなかったのだろうか?