十七代履中天皇、
十八代反正天皇、十九代允恭天皇

   『宋書』倭国伝は、443年に倭王「済」が安東将軍、倭国王の任命をもとめたとある。その記事は、「元嘉二十年、倭國王濟遣使奉獻 復以為安東將軍 倭國王」(倭国王済が遣使を奉じて貢献、再び安東将軍倭国王とする)。さらに、451年条に「元嘉二十八年、加使持節都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六國諸軍事 安東將軍如故」(使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えて、旧来のよう安東将軍に叙す)と記す。「済」は二回朝貢の遣使をしているが、初回と二回目とでは、叙任の爵位が異なる。これには、二人の天皇の要望あるいは意向があったとみる事が可能である。二人の天皇を「済」としていると考えられる。一人は履中天皇であることは間違いない。では、二人目はとなると、允恭天皇としたい。なぜならば、反正天皇に業績がなく、宋の皇帝から安東将軍を叙任される動機がないからである。

   443年頃、履中天皇が即位した。その同母弟の允恭天皇が451年に即位したと、私は考える。履中天皇の諱、去来穂別 (いざほわけ) からどうして「済」が連想されるのか、私には分からない。ところが、「済」には「義務を果たす」という意味がある。仁徳天皇の皇后磐之媛は、悋気をもって、天皇に他の妃を寄せつけず、邪馬台国の王統を引き嗣ぐ三人の皇子を生んだ。三人の皇子はそれぞれ皇位について、邪馬台国の王統を引き嗣ぐ「義務を果たした」のだ。おそらく、こうしたエピソードは、東漢氏が書面にしたため、遣使に持たせたのであろう。あるいは東漢氏の誰かが通訳として同行したとも考えられる。宋の朝堂の官吏は、その情報を得て、履中天皇に引き続き允恭天皇にも「済」を当てたのだ。『宋書』倭国伝の世祖大明四年(460年)条に「濟死、世子興遣使貢獻」とある。允恭天皇の崩御年は460年頃としたい。

   去来穂別(履中天皇)即位前、弟の住吉仲皇子が黒姫を姦通して、黒姫を妃としたいと望んでいた去来穂別皇太子と対立する。仲皇子は密かに兵を興して、皇太子の命を狙う。その時、去来穂別を助けたのが、先帝の重臣の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿禰と帰化漢人阿知使主であり、皇太子を連れて石上神宮に逃げ込む。反対に淡路の安曇連の海人と倭直吾子籠(やまとのあたいのあごこ)は仲皇子側に付く。石上神宮に逃げ込んだ太子の命を受けた瑞歯別皇子(みずはわけのみこ、後の反正天皇)は、仲皇子の衛士の隼人を裏切らせ、仲皇子を誅殺させる。その倭直吾子籠は神武=崇神の功臣である珍彦の末裔であり、大和神社を奉祭していた。吾子籠は妹の日之媛を采女に差し出す事で死罪を免れる。他方、安曇連浜子は捕まり、罰として目の周りに入れ墨を受ける。配下の海人は罪を許されるが屯倉で働く事になる。屯倉は農業経営地であり、海人の仕事をおわれたのだ。二人は付くべき主人を間違えたのだ。
   この事件には後日談がある。数年後(履中五年)、履中天皇は淡路島で狩りをする。その時、馬の手綱を執ったのが、目の周りに入れ墨をした馬飼部であった。まだ、入れ墨の傷が完全に治っていなかった。島に祭られていた伊弉諾神が神主に憑依して「馬飼部の入れ墨の匂いが気にいらない」といった。その神託が受け入れられ、その後、馬飼部の入れ墨は止められた。この話は、仲皇子に味方した淡路島の安曇連浜子の配下の海人が、目の周りに入れ墨を施され馬飼になっていたということを表わす。安曇氏の海人は古来、目の周りに入れ墨をしていた。いわゆる安曇目である。仁徳天皇の時代までには、この習慣は無くなっていたのであろうか。安曇連浜子配下の海人は、目の周りに入れ墨をして馬飼をすることを屈辱に感じたのであろう。それで、伊弉諾神を騙り、天皇に入れ墨を施す事を止める様に強訴したのだ。その時、淡路島の海人は、伊弉諾神に報恩しなかった。そこで、後日(允恭十五年)、淡路島に狩りに来た允恭天皇に伊弉諾神は祟った。一日かかっても獲物が一匹も捕れない様にしたのだ。伊弉諾神は明石の海の真珠の奉納を望んだ。しかし、淡路の海人はだれも深く潜る事ができなかった。そこで、阿波国の男狭磯(おさし)が六十尋潜って大アワビを採り、大きな真珠を取り出して神に供えた。男狭磯は潜水病で死んだが、天皇の狩りは豊猟となった。それを喜んだ天皇は、男狭磯を悼み墳墓を作って葬った。この時、淡路の海人は潜水漁のできないことで恥をかいたのだ。伊弉諾神は淡路の海人が報恩の奉祭をしなかったことで祟ったのであった。
   さらに、それから約十年後のことになるが、雄略天皇の即位前、大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)に父親の市辺押磐皇子を殺された二人の御子(億計王と弘計王)は、逃れて山代の苅羽井(かりばい)に着いて御粮(みかれい)を食べた。その時、目じりに入れ墨を入れた老人が来てその粮を奪った。二人が「粮は惜しくないが、おまえは一体誰だ」と問うと、「私は山代の猪甘だ」と答えた。猪甘(いかい)とは、豚を飼う部民である。猪甘は安曇連浜子であったのだ。失脚し、海人の仕事をおわれ、山代で猪甘に身を窶していたのだ。その後、山代の猪甘は、この無礼を身をもって償うことになる。後に、弘計王が顕宗天皇に成った時、御粮を奪うという無礼をはたらいた安曇連浜子見つけ出し、飛鳥河の河原で斬殺した。その一族の者も膝の筋を断ち切り処罰した。このようにして、奴国の安曇氏は一時的に衰退していくのである。『記』の説話には、かならず史実が隠されているのだ。

   履中元年、磐余稚桜宮で践祚。443年の事としたい。黒媛を皇妃とする。
   履中二年、平群木菟宿禰、蘇我満智宿禰、物部伊莒弗大連、阿知使主に国政を執らせる。この時から、蘇我氏と東漢の阿知使主が中央政界に乗出す事になる。蘇我満智宿禰は武内宿禰の血統であり、没落する葛城氏にとってかわって繁栄することになるのだ。
   履中五年、宗形(胸肩)の三神が宮中に現れ、天皇を詰問して、「なにゆえに、我が民を奪うのか。いま、汝にははずかしめをあたえるであろう」と言った。しかし、天皇はこれを無視した。すると、皇妃の黒姫が突然、死去してしまった。驚いた天皇は後悔し、祟りの原因を調べさせた。すると、車持君が筑紫国に行き、宗像神社に割き与えられていた車持部を奪いとったことへの祟りである事がわかった。天皇はその罪を責めて、祓え禊がせ、以後筑紫の車持部を司る事を禁じた。
   ここに出てくる車持君とは天皇の乗輿を製作、管理することを職業とした氏族で、その職務を果すための費用を貢納する車持部を与えられていた。この事件は、その車持部が宗形の領域で調を徴集したので、宗形三神が怒り、祟りを成したということである。日本の神は古来祟るのである。宗形の海人は応神天皇の時代から遣使の渡海に貢献する様になっていた。そして、今度は、宮中に参内し、宗形の領域で徴税するなと強訴したといえる。その時不幸にも皇妃の黒姫が突然死亡した。天皇はそれを三神の祟りと解したのだ。その車持君は崇神天皇の皇子で上毛野に下った皇別の豊城入彦(とよきいりひこ)の末裔なのである。世が世であれば、宗形の海人ごときに車持部の徴税について文句を言われる筋合いは無い。しかしもう、狗奴国の皇統の時代ではなくなっていたのだ。車持君は履中天皇の下知に従わざるを得なかったのだ。この「車」がなまって「群馬」となったとされる。
   履中六年、三月、天皇急病死。十月、百舌鳥耳原陵に葬る。

   反正元年、瑞歯別天皇践祚。皇子時代に兄の履中天皇について、仲皇子の乱を鎮圧した。反正天皇については特段の事蹟がないので省略する。
   反正五年、天皇崩御。弟の雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさつまわくごのすくねのみこ、後の允恭天皇)は壮年になって重い病気を患って、歩行障害になった。そのため、反正天皇の崩御後、天皇即位を断り続けた。

   允恭元年、妃の忍坂大中姫の涙ぐましい懇願を受けて践祚する。妃は皇后となる。
   この年を451年としたい。皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は応神天皇の皇子の稚野毛二派皇子を父とする。そして第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、第二皇女 軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)、第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)と第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、後の雄略天皇)を産む。この大中姫もかなり悋気が強かったようである。
   允恭三年、正月、新羅に使いを送って良い薬師をもとめる。八月、新羅より薬師が到着して天皇を治療する。ほどなくして、天皇の病気が回復したので、褒美を取らせて帰国させる。高麗人参を処方したのであろうか。『記』は薬師の名を調使の金波鎮漢紀武と記す。朝貢団員の一人としている。仁徳天皇紀にも新羅から多くの調の貢物があったことが記されている。この頃にかけて、新羅は倭国の天皇によく忠誠していたことが窺える。
   允恭四年、盟神探湯(くがたち)を群臣に課して、氏姓の乱れを正した。
   允恭五年、地震があった。この時先帝の反正天皇の殯(もがり)をまかされていた玉田宿禰は、他所で祝宴を催していて殯宮に不在であった。この問責を機に玉田宿禰は誅殺される。玉田宿禰は武内宿禰の孫である。これを境に武内宿禰が興した葛城氏は次第に没落して行く。この年、反正天皇の遺骸を耳原陵に葬る。陵墓の築造に約五年かかったことが窺える。反正天皇の陵墓に比定された「百舌鳥耳原北陵」はこの工期のわりには小さいようである。
   允恭二十四年、木梨軽皇子と軽大娘皇女は同母兄妹愛のタブーをおかす。露見して軽大娘皇女は伊予に流される。
   允恭四十二年、允恭天皇崩御。河内長野原陵に葬る。このとき天皇の崩御を知った新羅王は嘆き悲しみ、多くの貢物と弔いの楽団を遣わした。弔問の一行は難波津から都まで哭き、踊り、歌いながら殯宮に参じた。その帰国時、新羅の使いが畝傍山を愛でて「うねめはや」と言ったのを、新羅人の言葉がわからない馬飼人が、新羅人が「采女を姦した」と聞き違え、大泊瀬皇子に訴える。疑われた新羅人は大いに「恨み」、その後、貢ぎ物の種類と数を減らす様になった(新羅人の「恨」は千年続くらしい)。