二十一代雄略天皇
(5)三輪山の神と蜾蠃

   三輪山の神は雷蛇神であったのか?

   雄略七年、天皇は少子部連蜾蠃(すがる)に詔して「自分は三諸岳の神の形を見たいと思う(あるいは、この山の神は大物代主神という。あるいは菟田の墨坂神という)。お前は膂力が人より勝れている。お前が行って捕えて来い」と言った。蜾蠃は「試しに行って捕えてみましょう」と答えた。それで三諸岳に登って大蛇を捕えて、天皇に奉った。その大蛇は雷のような音を立て、目は輝いていた。天皇は畏れて目を覆い、見ることをせずに殿中に隠れた。その後大蛇は岳に放たせた。そして名を賜って雷と改めた。
   たわいない説話であるが、ここに三輪山の神が雷蛇神とされる由緒があるのだ。雄略六年に、天皇は蜾蠃に「全国の蚕(こ)を集めよ」と命じるが、蜾蠃は勘違いして児(赤ん坊)を集めた。天皇は、勘違いを笑って赦し、蜾蠃を少子部連(ちいさこべのむらじ)に任じて今で言う保育園を作り養わせた。おそらく、その子供達の学芸会用に大蛇の着ぐるみ、あるいはハリボテを作ったのであろう。それを蜾蠃が宮中に持ち込んで天皇を驚かせたのである。大蛇の着ぐるみが大きな音をだしたので、驚いた天皇は雷と改名させた。天皇と蜾蠃と園児のお遊びなのである。雷のような大きな音をだす大蛇など実在する訳ないではないか。

   『記紀』の解説は、三輪山の神は先住の民が祭る神で、古来雷蛇神とされていたと説く。私は、崇神天皇の時代に、箸墓に埋葬された倭迹迹日百襲姫の蛇神婚譚で初めて三輪山の神が蛇神であるとしたと考えている。結局の所、この雄略天皇の時代の説話から、三輪山の神は蛇であり、雷であるとの伝承が生まれたと見るべきであると私は考える。雄略天皇は三輪山の神である大蛇をお遊びに使ったが斎戒しなかった。後に(十四年)劉宋の王朝が献じた衣縫(きぬぬい)の兄媛を三輪大神に奉っている。この話は、応神天皇が同じく劉宋の王朝が献じた工女の兄媛を宗形三神に奉ったのと、類似する。日本の神はきちんと報恩しないと祟るからだ。