葛城系王統の光芒

   これまでの歴史を俯瞰すると、神功皇后以降、母方の葛城氏が皇統を独占してきた。饒速日が天道女を娶ってなした天香語山が、饒速日と一緒に天磐船に乗って河内に天降り、高倉下と名前をかえて紀伊国の熊野(いや)邑から大和の高尾張邑に入り込み、磐余彦(神武天皇)と戦った(この時から葛城邑と呼ばれる)。その後、高尾張邑の媛達と通婚し、儲けた子孫が尾張氏を興した。その一人葛城高顙媛(かつらぎたかぬくひめ)が武内宿禰に見いだされ、近江の豪族の息長宿禰と結婚して生まれた子が気長足姫である。そして、仲哀天皇の皇后となる(以下神功皇后)。神功皇后は同じく邪馬台国後裔の武内宿禰と不倫をして応神天皇を生む。応神天皇は尾張氏の仲姫を后にして仁徳天皇を儲ける。仁徳天皇は武内宿禰の子の葛城襲津彦の娘、磐之姫を皇后にして履中天皇・反正天皇・允恭天皇をなす。履中天皇の皇妃、葛城黒姫は磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を儲けるが、皇子は雄略天皇に殺される。磐坂市辺押磐皇子は葛城蟻臣の娘の荑媛(はえひめ)を娶っており、二人の御子は仁賢天皇・顕宗天皇になる。また、允恭天皇は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)の娘、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)皇后との間に、安康天皇と雄略天皇を儲ける。雄略天皇は葛城韓姫を妃として清寧天皇をなすが、継嗣がなく、この代で葛城系の王統は歴史の表舞台から消えることになる。また、葛城韓姫の父の葛城円は雄略天皇に焼き殺され、その父の玉田宿禰も允恭天皇により誅殺される。こうして武内宿禰が興した葛城氏宗家は滅亡するのである。

   このように、十七代履中天皇の第一皇子市辺押磐(いちのへのおしは)の二人の御子が二十三代顕宗天皇と二十四代仁賢天皇となる。そして二十五代武烈天皇へと邪馬台国の王統はひき嗣がれて行く。ところが、武烈天皇は若死にし、かつ後嗣を定めていなかったため皇位継承が絶えてしまう恐れがでた。