二十代安康天皇

『宋書』倭国伝の世祖大明四年(460年)条に「濟死 世子興遣使貢獻」。大明六年(462年)条に「倭王世子興 奕世載忠 作藩外海 稟化寧境 恭修貢職 新嗣邊業 宜授爵號 可安東將軍 倭國王」(詔に曰く「倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」)とある。
   穴穂天皇=安康天皇がなぜ「興」なのか? それは、「穴」つまり「孔」であり、「興」に通じる。宋の朝堂の官吏は、「孔子」に通じる「孔」を避け、同じ音を持つ「興」にしたのであろう。460年頃を安康天皇即位年としたい。

   穴穂天皇=安康天皇践祚前、同母兄妹愛のタブーをおかした木梨軽皇太子は群臣の離反にあい、皇位が危ぶまれた。そこで、弟の穴穂皇子を襲うため兵を興す。それに対して穴穂皇子も兵を興して木梨軽皇太子を攻めた。木梨軽皇太子は、穴穂皇子の兵に攻められて物部大前宿禰の館に潜むが、大前宿禰の計らいむなしく自殺する。そして、穴穂天皇が即位する。
   安康元年、安康天皇は、根使主の嘘言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妻であった中蒂姫(なかしひめ)を自分の皇后に立てた。
   安康三年、安康天皇は、皇后中蒂姫の連れ子(大草香皇子の子)の眉輪王に暗殺される。その年は463年頃としたい。
   安康天皇の事蹟は三年で眉輪王(まよわのおおきみ)による殺害で終わっている。