十五代応神天皇
(2)内政

   応神元年、干支は庚寅年である。
   庚寅年は390年であるが、この年は、胎中天皇としての応神天皇の誕生年であり、また、神功皇后摂政元年とみたい。それでは、実質の天皇としての即位年はいつであろうか? 私は東晋に遣使した413年としたい。神功皇后が東晋の王朝に応神天皇即位の報告と承認を得るために、遣使したと考えたい。ただし、『晋書』安帝紀には朝貢の事実を記すのみで、具体的な記述は無い。

   応神三年、各地の海人が乱暴な言葉をはいて命令に従わないので安曇連の大浜宿禰に命じて騒動をおさえた。
   ここに出てくる海人とは何者であるのか? 「安曇連の大浜宿禰に命じて騒動をおさえた」とあるが、私は住吉系の海人と考える。この時、大浜宿禰が海人を統括していたのであろう。ではなぜ、住吉系の海人が乱暴な言葉で騒いだのか? 古代、海人には、住吉三神(底筒男・中筒男・上筒男)を祭る海人もあった。住吉三神は、神功皇后が新羅征討の時、皇后に憑依した神であり、三神の荒魂を軍船に祭って無事新羅に渡る事ができた。荒魂は新羅の王城に祭ってきた(『紀』では長門の山田邑の祠に祭った。下関市の住吉神社)。そして、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(大阪府堺市堺区七道)に帰還し、忍熊王と戦う際に、神功皇后への神託により三神の和魂を摂津国住吉郡(大阪市住吉区)の祠に祭った。それが住吉大社(図1)である。

摂津國一之宮 住吉大社
図1. 摂津國一之宮 住吉大社
住吉三神を祭る海人が神功皇后の新羅征討に大きく貢献したことがわかる。神功皇后が新羅征討の大号令を儺県(なのあがた=奴国)の橿日宮で発した当初、兵は集まっていない。その後、大三輪社から神を勧請して朝倉郡の大三輪神社に祭り、参拝してようやく、軍船団を仕立てる事が出来た。おそらく、摂津や河内の海人を参集させたのであろう。そして、新羅遠征を成し遂げ、新羅から帰還した神功皇后に住吉三神を祭る社を建てる様に海人たちは要求したのだ。地元の人には申し訳ないが、「河内弁」を地域外の我々が聞くと、すごく乱暴に聞こえる。河内名物に「くらわんか餅」がある。「お食べ」を河内弁で「喰らわんか」という。これが乱暴に聞こえる言葉の一例である。おそらく「河内弁」で政府に要望したのであろう。住吉大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ)を祖としており、天香語山の末裔の尾張氏である。つまり、河内や摂津に住む邪馬台国後裔の豪族の配下の海人が、神功皇后の新羅征討で、働いたということになる。その後裔とは神功皇后の母方の葛城氏であり、尾張氏なのだ。住吉大社には、三神に加えて、のちに神功皇后も祭られている。以後、遣隋使や遣唐使の派遣に際して、必ず朝廷より住吉大社に奉幣があり、その航海の無事が祈られ、そして仁徳天皇が開いた住吉津から出航するのが常であった。このように住吉三神を祭る住吉大社は栄えるのだ。他方、海人には安曇氏系統の海人もある。安曇氏の海人は、綿津見神三神を祭る志賀海神社がある志賀島を含む筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡市東部)を根拠とする。つまり、狗奴国の本貫地の奴国を根拠地としているのだ。橿日宮は儺県(=奴国)に建てられた。しかし、神功皇后の新羅征討の大号令に、安曇氏の海人は参加に消極的であった。それゆえ、神功皇后の新羅征討で活躍した河内や摂津の海人が厚遇されるのとは反対に、安曇氏の海人は不遇をかこつことになる。応神五年に全国的に海人部と山守部が定められた。これは、安曇氏の海人、住吉系の海人、気比系の海人、伊勢の海人を定めたのであろう。この時、安曇氏は本拠地である北部九州の福岡県志賀島一帯から離れて全国に移住したのだ。安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残っている。また、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、信濃国の安曇郡(長野県安曇野市)とされる。山守部・山部となったのだ。応神記の山の幸を献上する吉野国主(よしのくず)も山部に定められたのであろう。四十年、応神天皇は御子の大山守に、この海部と山部の管理を命じている。三年と五年の施策からも、神功皇后と応神天皇が邪馬台国と不弥国後裔の豪族とその関連氏族を隆盛させたのとは反対に、奴国および狗奴国後裔の衰退がうかがえる。ただし、宗形の海人は大和王権に貢献していくようである。応神四十一年条に「阿知使主らが呉より工女を筑紫につれて帰る。その時、宗形大神が工女を求めたので兄媛を奉った」とあり、この航海に宗形の海人が働いたことがわかる。その褒美に劉宋の工女を求めたのであろう。これを機に宗形の海人は応神天皇以後(五世紀半ばから)の大和王権に貢献していくことになる。