十六代仁徳天皇
(2)皇后と妃

   仁徳二年、磐之媛を皇后とする。この皇后の三人の皇子が履中天皇、反正天皇、そして允恭天皇になる。皇后の磐之媛は悋気が強く、存命中は妃を置く事を許さなかった。なぜか? 磐之媛は神功皇后と応神天皇の時代に対新羅外交を統括した葛城襲津彦の娘であり、葛城襲津彦は武内宿禰の子である。天皇が臣下の娘を皇后にしたのはこれが初めてである。磐之媛は悋気が強いとされているが、武内宿禰の孫であるならば、王統に邪馬台国の血統を維持することは至上命題である。それをゆるがすことになる妃を置く事を強く阻止したのだ。出自が異なる妃の子供が皇位に即く事はなんとしても回避しなければならない。けっして嫉妬心だけで、妃を置く事を嫌ったわけではないのだ。磐之媛は仁徳天皇との間に、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、後の履中天皇)、瑞歯別尊(みずはわけのみこと、後の反正天皇)および雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、後の允恭天皇)をもうけ、邪馬台国王統を継続させるという責務を見事にはたしたのだ

   仁徳三十年、皇后磐之媛が紀伊国に遊びに行った隙に、天皇が八田皇女と浮気したことを知る。皇后は天皇に愛想を尽かしたのか、都に戻る事無く、奈良山から故郷の葛城邑を望んで望郷の歌を読む。そしてそのまま山背に戻り、木津川を下って筒城に宮を建てて終世を過ごす。前述したが、筒城つまり山城国綴喜郡筒城郷は、神功皇后の本貫地であったのだ。神功皇后の祖父迦邇米雷(かにめいかづち)は、息長氏が奉斎する朱智神社(しゅちじんじゃ、山城国綴喜郡筒城郷)の祖神となっている。磐之媛は、余生を過ごすため、義理の祖母神功皇后の本貫地に身を寄せたのだ。勿論、息長氏が世話をしたことはいうまでもない。それにもう一つの理由があった。おそらく、応神天皇の落胤(仁徳天皇の異腹兄)と義兄妹として親交を求めたのであろう。帝王学を教えたのかもしれない。

   仁徳三十五年夏六月、皇后の磐之媛は筒城宮で亡くなった。
   仁徳三十七年冬十一月、皇后を乃羅山(ならのやま)に葬る。
   皇后磐之媛が死亡してから葬るまでに約二年半がある。この間に陵墓を築造したことがわかる。今に伝わる平城坂上陵の規模の古墳は二年半の期間で築造されたことになる。

   磐之媛皇后より前に妃となっていた日向の髪長媛は、大草香皇子と幡梭皇女を生んだ。仁徳天皇は、磐之媛の悋気に煩わされつつも、多くの媛と愛を育んだのだ。